「紀州のドン・ファン」事件で殺人罪に問われた元妻に対して、無罪判決が出た。検察側の立証は状況証拠の積み重ねで、直接的な物的証拠は何もなかったのだから、無理はない。
検察は、元妻が覚醒剤を大量に飲ませて殺害したと主張したが、どうやって飲ませたのかは明らかに出来なかった。実際には本人がもともと覚醒剤を使用していて、失敗して飲み過ぎたのかもしれず、そもそも殺人事件だったのかどうかさえ定かではないのだ。
確かに元妻のスマホの検索履歴には「覚醒剤 死亡」だの「妻に全財産残したい場合の遺言書文例 遺言書」だのといったものがあり、状況的にはあまりにも符合しすぎていて、これは怪しいと思う。 だがそれでも、それは殺害の直接証拠とはならないのである。
今回のような、状況証拠の積み重ねによる立証が認められないという判例が定着すれば、犯罪者の側から見れば、ある意味「完全犯罪」がすごくやりやすいということにはなってしまう。
いくらあちこちにたくさんボロを出していたとしても、実際の犯行時の映像を撮られていたというような決定的な証拠でもない限り、逃げおおせることが可能になってくるだろう。
とはいえ、この裁判では「疑わしきは被告人の利益に」という原則が通されたわけで、それは非常に重要なことである。
この原則が徹底されていれば冤罪は起きないのであり、そういう意味で今回の判決はよかったと思う。 やはり冤罪を防ぐためには、状況証拠の積み重ねだけでは立証には不足であるということを、常識にしなければならないのだ。
日本の刑事裁判では、検察が起訴したら有罪率が99.9%。 裁判になったら無罪になることはほぼないというが、そのこと自体に無理があったのかもしれない。
今回の裁判でも、裁判員制度による審理でなければ有罪判決が出ていたかもしれないという見方もあるようだが、今までの裁判の方が、検察のメンツばかりを優先しすぎていたのではないかと思う。
今回の裁判員の心証には、袴田事件が大きく影響したのかもしれない。 何しろ物的証拠が捏造されていたということが現実に起きていたのだ。 物証があっても信用できないということすらあるのなら、なおのこと状況証拠の積み重ねだけでは信用できないということになるわけである。
それで、ここで疑問を持つのは――(この記事は約29分で読めます ※11,494文字)
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