ローマのクレメンスが96年ごろ、コリントの信徒へあてて書いた手紙にローマ司教の権威に関する言及があり、アンティオキアのイグナティオスも105年ごろにローマの信徒へあてて書いた手紙の中でローマ司教の「裁治権」にふれています。
この「裁治権」について、ある者はこれこそが古代からローマ司教が特別な権威を持っていたと考える人と、単に名誉的なもので実際的な権威はなかったというようなことを言う人もいます。
2世紀(189年ごろ)になって、リヨンのエイレナイオスが『異端反駁』3:3:2でローマ教会の首位権について述べています。
そこでは「ローマの教会が特別な起源を有し、真に使徒に由来する伝承を保っていることはすべての教会で認められていることである」とされているのです。
この記述は史上初めてローマ教会の特別な地位について明確に述べたものですが、ギリシャなどの東方地域においてはローマの首位は受け入れられていなかったと考えられています。
特にローマ皇帝がローマを離れてコンスタンティノープルに移ったあとで、その傾向は顕著となりました。381年の第1コンスタンティノープル公会議において、教皇が出席を見合わせたのも、その地位と権威についてローマ帝国の東西で見解が分かれていたからなのです。
半世紀後の440年に着座したレオ1世大教皇の時代になると、ローマ教皇こそがイエスから使徒ペトロに与えられ、ペトロから代々引き継がれた全教会に及ぶ権威を持っているという見解が公式に唱えられるようになります。
451年のカルケドン公会議ではレオ1世は使節を通して「自分の声はペトロの声である」と述べています。
当時ローマとコンスタンティノープルどちらかの権威が上なのか議論になっていました。この公会議の席上、コンスタンティノープル大司教は「コンスタンティノープルは新しいローマ」であるため「名誉ある地位をローマに譲るものである」という声明を出しましたが、ローマ側から「事の判断をうやむやにしている」という意見が出て受け入れられなかったのではないでしょうか。
世俗君主との関係では8世紀頃まで東ローマ皇帝の主権下にあり、教義問題で皇帝と対立した教皇が逮捕され、流刑に処されるということもありましたーーー(『宇田川敬介の日本の裏側の見えない世界の話』2025年5月12日号より一部抜粋。続きはご登録の上お楽しみください。初月無料です)
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