僕が経営していた塾では、授業を担当する前に三ヶ月ほど研修期間を設けて、授業の練習をしてもらう。三ヶ月と言えば長く感じるかもしれないけど、実は初めての先生がいい授業をするには全然足りない期間だ。しかもその前までは別の先生(例えば僕とか)がそのクラスを担当していたわけで、初めての先生は自分に変わったときにどう思われるかを考えるだけで苦しくなる。だから初めて授業に入る前は緊張で夜も眠れない。
だから、新人の先生には一つのことができるだけで十分だと伝えるんですね。
「とにかく生徒の目を見て話ができる。それだけを頑張ればいいから」とかね。そしてそれができていれば、他のことがどれだけぐちゃぐちゃであっても、「いやぁ。本当にいい授業だったよ。自信持っていいよ」と伝えるわけです。もちろん本人は手応えなんてまったくないんでしょうが。
ところが、久しぶりにその先生の授業を見てみると、ほとんど成長していないなんてことがよくあるわけです。それで話をしてみると、「それだけを頑張ればいいと言われたんで…」というようなやり取りが実際にあった。
「何をやればいいか」は明確に指示を出したのだが「何のために」を伝えていなかったんですね。そして相手の中では、言われたことをやっていたのに「何をやればいいか」を言われたその相手から「それじゃダメだ」と言われた。その記憶だけが残っていくというわけです。
授業の目的が、「子どもが自ら考える力を育む」ことだとしたら、それを達成する手段は一つではないはず。これがダメならあれ、あの手がダメならこの手とそれこそ刻一刻と変わり続け、ブラッシュアップし続け、磨き続けていくのが手段のはず。手段の伝達だけで、思考停止を生み出し続けていくと、指示まちが基本となり、目的から遠く離れていってしまう。
レストランでナイフやフォーク、グラスに水垢のような汚れがついていたことはないだろうか。
高級レストランでは少ないかもしれないが、ファミレスのようなところだとよくみると結構汚れが残っていることが多いことに気づく。なぜそうなるのかもよくわかる。
飲食関係の仕事をしたことがある人は「洗いもの」の仕事をやったことがあると思う。
どの職場でも、「これ洗っといて」「ここにこうやって水を溜めて、こっちで洗ったやつをこっちに入れてすすいで」「食洗機にこうやって並べて、ここのボタンで」とやり方の説明は受けるが、その目的を言われたことがないからだ。
「次にこの器を使って食べるお客さまが、気持ちよく、安全に食事ができるようにするのが、あなたの仕事ね」と言われるだけで、「洗う」という言葉もないし「洗い方」については言及されていないが、「自分で考える余地」が生まれる。言われた通り食洗機で洗ってもそこから棚にしまうときに汚れがあれば拭き取るという行為をするようになるかもしれない。
「『手段』に忠実に動いてもらい、『目的』は相手の自由に任せる」では頼んだ相手によって仕上がりに差が生まれるのも仕方がない。
「『目的』に忠実に動いてもらい、『手段』は相手の自由に任せる」というのが人を成長させる指導者だ。
「何のために」を常に伝えてくれる指導者のもとでは、指示待ちではなく自分でその手段を考える人財が育ちやすくなる。
「言われた通りにやってるのに、文句を言われた」という食い違いをなくすためにもーーー(『喜多川泰のメルマガ「Leader’s Village」』2025年6月27日号より一部抜粋、続きはご登録の上お楽しみください。初月無料です)
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