「関心の欠如」「怒りの欠如」こそが日本社会の精神的腐敗の証左
この事件。加害者個人の倒錯的な性癖や道徳の欠如だけでは説明のつかない「社会全体の沈黙の構造」が背景にある。
特に重大事件に対するメディアの報道姿勢、そして市民の“鈍感さ”である。
この二つの「沈黙の共犯関係」が、今まさに日本社会の根底を静かに、しかし確実に腐らせていると思えてならない。
まず、事件を取り上げるメディアの扱いが異常なまでに小さいし、教育機関の信頼を揺るがす一大事件であるにもかかわらず、主要テレビ局の報道はごく短く、新聞の一面や特集記事にも大きくは取り上げられていない。
こんな「報道の沈黙」は一体何を意味するのか。
それは、教育現場や公務員制度に対する“過剰な配慮”か、あるいは「見せたくない現実には触れない」という情報統制的な判断かもしれない。
つまり、マスコミまでもがこの種の問題に“フタ”をしようとする構造がある。
その根底には、体制側との共生関係や、スポンサーへの忖度、市民の“知りたくない”という無意識の圧力があるとも考えられる。
そして、僕等市民にも大きな責任があるだろう。
こんな事件が起きたとき、一瞬「ひどい話だ」と憤り、SNSで数回言及する程度で、すぐに忘れてしまう。
目の前の生活や娯楽、次の話題へと関心が移っていく。これが「慣れ」となり、「見ないふり」が当たり前になり、「再発しても驚かない」という麻痺状態へと社会全体が陥っていくのだ。
教育は民主主義の根幹。
教育の崩壊は、やがて社会全体の倫理と秩序の崩壊に直結する。にもかかわらず、それに対して声を上げるメディアがなく、抗議し、制度改革を求める市民運動もほとんど見られない。
この「関心の欠如」「怒りの欠如」こそが、日本社会の精神的な腐敗の証左ではないだろうか。
この構造の中で、次の犠牲者が生まれるのは時間の問題だろう。誰かが声を上げ、問いを立て、真実を明るみに出そうとする意志がなければ、腐敗は静かに、しかし確実に進行していく。
「誰も自分を守ってくれない」という孤立感を生む原因に
今回の盗撮事件が、教育現場で起きたという事実は、単なる「大人の倫理の欠如」にとどまらない。
これは、まだ世界を信じていた子どもたちの心に「社会への不信」と「恐れ」を直接刻み込む暴力であり、日本の未来そのものに対する破壊的行為と言っても過言ではないだろう。
叫べ、教師!叫べ、国民!と声を大にして言いたい。
子どもたちは、大人を通じてこの世界を学ぶ。
特に学校は、親とは違う“もうひとつの社会”を学ぶ場所であり、教師はその入り口となる案内人だ。
そんな教師が、自分の体を「隠し撮り」し、「おもちゃ」のように扱い、他人と共有して笑い合っていたという事実を子どもが知ったとき、世界は一気に信じがたい場所へと変貌する。
何よりも恐ろしいのは、子どもたちが「自分が悪かったのかもしれない」と感じてしまう可能性さえ出てくる。
多くの児童性被害に共通するのは、「加害者の責任」を「被害者が内面化する」という心の反応なのだ。
「あの時あんな服を着ていなければ…」「先生の言うことに逆らわなければ…」という誤った自己認識が、成長過程での自己肯定感を奪い、生涯にわたって心の奥深くに傷を残すのである。
また、今回のように複数の大人が関与し、誰一人止めようとしなかった構造を知れば、子どもたちは「大人は誰も助けてくれない」「学校も社会も安全じゃない」という印象を持ってしまう。
このような感覚は、友達関係や家族への信頼感にも波及し、「どうせ信じても裏切られる」「誰も自分を守ってくれない」という孤立感を生む原因となるだろう。
結果として、不登校、うつ、引きこもり、自傷行為など、深刻なメンタルヘルスの問題に発展するケースも珍しくない。
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