すべての大人に課せられている「子ども」という未来を守る責任
この事件の最大の問題点は、子どもが“物”として扱われ、それが「共有できるデータ」として取り扱われたこと。
これは、教育が持つべき“人格を育む場”という本質を完全に逸脱し、人格そのものを踏みにじる行為だ。
教師が子どもを「守るべき命」ではなく、「利用できる素材」と見るようになったとき、教育はすでにその意味を失っている。
それは、教育制度、行政、メディア、そして僕ら市民一人ひとりの「無関心と放置」が生んだ複合的な社会的犯罪であり、「今の日本」が抱える根本的な病に他ならない。
ここで僕らは、はっきりと問わねばならない。
この事件を「他人事」として見過ごす社会に、次世代を託す資格があるのか、と。
本来、社会は子どもを守る仕組みであるべき。教育者は、その中でも最前線に立つ存在。そこに腐敗があるということは、社会の芯が腐り始めていることに他ならないのだ。
その責任は、教育機関や行政にとどまらず、メディアの沈黙に疑問を持たず、声を上げることを忘れ、自ら行動することを怠った私たち市民一人ひとりにも等しくあるということ。
まず、第一に必要なのは「気づく力」を取り戻すこと。
報道が少ないからといって忘れるのではなく、自分から情報を調べ、疑問を持ち、深掘りし、背景を読み解こうとする意識が必要なのだ!要は、「テレパシック感性」の欠如に繋がるのである。
「この事件の裏には何があるのか」「なぜ誰も止めなかったのか」「他にも被害はなかったのか」と問い続ける力こそ、社会を支える土台だというのに。
そして、「声を上げること」。
SNSでの発信、学校や地域での対話、議員への働きかけ、子どもたちへの性教育やメディアリテラシーの推進。
どれも些細なことに見えるかもしれないが、「このままではいけない」という意志の表明こそが、腐敗の進行を止めるための確かな一歩になる。
「学校に任せておけば大丈夫」という時代は、もう終わりにしなければならない。
保護者はもちろん、地域社会全体で教育現場を見守り、支える体制が必要なのだ。教育の質は、子どもの安全と未来に直結しているのだから。
そして最も大切なのは、「倫理を生きる大人であること」。
社会の空気は、大人の生き様そのもの。
僕らが日々の中で他人をどう扱い、何に怒り、何を許容しているのか。そのすべてが、子どもたちの未来を形作っていく。
今一度、自分の中の倫理観、社会観、人間観を問い直し、「真に恥じるべきことは何か」「正すべきは何か」を直視する時である。
この事件は、日本の根底にある“鈍感さ”“怠慢”“責任の放棄”を容赦なく暴いた。素通りしてはならない。
そしてそれは、警鐘ではなく、すでに始まっている崩壊の兆しなのかもしれない。
だからこそ、今ここで立ち止まり、目を開き、声を上げる必要があるのだ。
日本の未来は、子どもたちの心の中にある。そしてその未来を守る責任は、今を生きる僕ら全員に課せられている。
もう、「他人事」ではいられない。
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