本格派俳優からお笑いタレント・スポーツ選手など、多くの人気実力者を抱えるケイダッシュグループ。そんなグループを束ね牽引してきた川村龍夫会長の急逝を受け、芸能界のみならず各所からその死を悼む声が上がっています。今回のメルマガ『上杉隆の「ニッポンの問題点」』ではジャーナリストの上杉隆さんが、多くの人に慕われた川村氏の人となりや功績を紹介。さらに自身が直接触れた彼の「謙虚な姿勢」を明かしています。
※本記事のタイトルはMAG2NEWS編集部によるものです/原題:夢は世界規模 ケイダッシュグループ会長・川村龍夫氏(前編)
夢は世界規模 ケイダッシュグループ会長・川村龍夫氏(前編)
昭和から平成、令和と時代の遷ろう中、華やかな芸能の舞台裏で、数多くのタレントたちの夢を支え、育て、世界へと羽ばたかせたひとりの男がいた。
2025年7月30日、京都のホテルで静かに84年の生涯を終えたケイダッシュグループ会長・川村龍夫。前夜、上場企業の関係者らと貴船の川床にて宴を張り、祇園に戻った後、単身当地のホテルに投宿した。だが、それが最期の夜になるとはいったい誰が想像しえたか。
運命的な出会いから始まった芸能界人生
1941年1月20日、東京都に生まれた川村の人生を決定づけたのは、千葉県立市川高等学校での出会いだった。同級生だった鹿内孝との友情は、単なる学友の絆を超えて、川村を芸能界という未知の世界へと誘う道しるべでもあった(ちなみに同じく同級生にバーニングプロダクションの周防郁雄もいたが、世間で言われているほど親しくはない)。
立教大学在学中、鹿内から「一緒に音楽の道で頑張ろう」と誘われると、川村は迷うことなく友の夢に賭けたという。それが、日本の芸能界に半世紀以上にわたって影響を与える人物の伝説の始まりだった。
鹿内が「鹿内タカシとブルー・コメッツ」のリーダーとして活動を始めると、川村は彼のマネジャーとして献身的にその友情に応える。後にジャッキー吉川とブルー・コメッツとなるこのグループのマネジメントを手がけた川村は、すでに20代の頃から、その卓越した先見性と人を動かす力を発揮していたという。
グループサウンズ黄金時代の立役者
1960年代、日本の音楽界はグループサウンズブームに沸いていたが、当時「グループサウンズは不良」というイメージが世間に定着していた。川村はこうした偏見と真正面から向き合うことになる。ブルー・コメッツの音楽的価値を信じ、NHK紅白歌合戦に出場させるために関係各所を駆け回った。川村の情熱と説得力は実を結び、1966年から3年連続紅白出場、1967年には「ブルー・シャトウ」でレコード大賞を獲得し、グループサウンズ全体の社会的地位向上に大きく貢献した。
当時の川村を知る関係者のひとりは、「まだ20代の若者が、業界の重鎮たちを相手にして堂々と対等に話し、時には激論を交わしながらも、最後には必ず相手の心を動かしていた」と驚きをもって振り返った。それは、単なる営業力ではなく、アーティストへの深い愛情と音楽そのものへの敬意から生まれる説得力に他ならなかった。
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ケイダッシュ設立 夢は世界規模
田辺エージェンシーで経験を積んだ川村は、1993年、52歳でケイダッシュを設立する。独立当初から川村には「世界」という大きな目標があったと、以前、筆者に語ってくれたことがある。「日本のショービジネスを世界に通用するレベルまで押し上げたい」という彼の信念は、ただの理想論ではなく、のちに具体的な行動に裏打ちされるビジョンであったのだ。
堺正章、高橋克典、大鶴義丹、永井大、押切もえ、オードリーなど、多くの人気タレントを輩出していく中で、川村の真骨頂が発揮されたのは、渡辺謙の世界進出プロジェクトだった。2002年に渡辺がケイダッシュに所属すると、川村は渡辺のハリウッド進出をプロデュース、全面的にバックアップすることになった。
渡辺謙と歩んだ世界への道
2003年公開の「ラスト サムライ」での渡辺謙のハリウッドデビューから、2015年のブロードウェー・ミュージカル「王様と私」主演まで、川村は常に渡辺の挑戦を支え続けた。ニューヨークに「王様と私」の観劇に来た川村は、お礼を述べようとした渡辺に対して、逆に「謙、本当すごいよな。ここまで連れてきてくれてありがとうだな」と語ったという。
2022年10月、韓国・釜山で開催された「第4回アジアコンテンツアワード」で生涯功労賞を受賞した際、渡辺謙からのサプライズ・ビデオメッセージが流れた。「会長とは二十数年お仕事させていただいておりますが、アカデミー賞、トニー賞、釜山映画国際にも一緒にいきましたね。グローバルな視点が隅々まで行き渡っていい仕事させていただきました」という渡辺の言葉は、二人の絆の深さを物語っている。
人情味あふれる親分肌の人柄
川村の人柄を最もよく表すエピソードのひとつに、マスコミ対応がある。一般紙のみならずスポーツ紙の隅々まで読んでいた川村は、事務所所属のタレントのインタビューやコラムが掲載されると、直接記者に電話をかけて感想を伝えていたものだった。
「きょうのインタビュー記事良かったよ。役者としての魅力がうまく表現されていた。とても良い記事をありがとう」といったような激励の言葉はどの記者にとっても悪い気はしないだろう。
アントニオ猪木との50年にわたる友情
川村の交友関係の中でも特別な存在だったのがアントニオ猪木とのそれだった。約50年にわたる親交は、川村が猪木設立のプロレス団体「UFO」の社長を務めるほど深いものであった。2001年12月31日の「猪木祭り」や2002年の格闘技イベント「UFO LEGEND」ではイベント・プロデューサーとして手腕を発揮する。
「一緒に北朝鮮に行ったり、モハメド・アリに会ったり、思い出は尽きない。いつも夢を語る男でした」と川村の語るアントニオ猪木との思い出は、二人の友情がビジネスを超えた深い絆であったことを示している。
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若手芸人への温かいまなざし
オードリーの若林正恭、春日俊彰をはじめとする若手芸人たちに対する川村の姿勢も、単なる事業者のそれではなかった。彼らの才能を見抜き、ついには東京ドームを満杯にするまでの成長を遂げた彼らにとって、川村は父親のような温かさがあったという。
ケイダッシュステージに所属する多くの芸人たちが、川村の人柄に惹かれて事務所を選んだという話は業界内ではよく知られている話だ。
グループ新年会に込められた思い
毎年1月20日の川村の誕生日に合わせて開催されるケイダッシュグループの新年会は、川村の人となりを象徴するイベントだった。所属タレントのほぼ全員が参加し、関係者を盛大に招く新年会では、タレント、スポーツ選手、マスコミ関係者が川村への新年の挨拶を行うために大行列を作るのが風物詩になっていた。
実際、今年(2025年)の新年会でも、会場の愛宕ヒルズ・グリーンタワーの専用エレベーター前には長蛇の列ができ、田辺エージェンシーの田辺昭知が引退し、バーニングプロダクションの周防郁雄が体調を崩す中、ひとり川村の芸能界での圧倒的な影響力を示すことになった。
満員となったタワー最上階の会場「XEX ATAGO」で、所属タレントの全体撮影の後、川村は約2時間、ほぼ立ちっぱなしで参加者一人ひとりに挨拶を交わしていた。次の予定のため、開始早々辞去しなくてはならなかった筆者が、その無礼を詫びると「忙しいのにわざわざ来てくれてありがとう」と、逆に頭を下げられた。どんなに年齢が下でも相手が誰であろうと、川村のこうした謙虚な姿は変わらない。
スポーツ界との深いつながり
芸能界だけでなく、川村はプロ野球界にも大きな影響を与えた。ケイダッシュの関連会社には日本ハムの新庄剛志監督らが所属するなど、スポーツ界との結びつきも深かった。
薬物使用で行き場を失っていた清原和博選手を救おうとしたのも川村だった。「もう絶対ににやるなよ。確認するぞ、やっていないな。周りが悲しむからな、ぜったいやるな」と諭した直後、再び清原が逮捕されたのを知って誰よりも悲しんだのはほかならぬ川村だった。川村の人脈は業界の垣根を超え、ショービズの世界全体に及んでいた。
最後まで現役として
命のともしびを消す前夜、古都にて、いつもにも増して愉しく過ごした川村が、翌日のチェックアウト時刻までに自分の人生が終わるとは予想もしなかっただろう。とはいえ、心筋梗塞ともいわれる突然の死という散り際までもが、現役として芸能文化の発展に貢献していた川村らしい最期でもあったといえよう。
(後編につづく)
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(『上杉隆の「ニッポンの問題点」』2025年8月1日号より一部抜粋、続きはご登録の上お楽しみください。初月無料です)
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