スマホはもはや単なる道具ではなく、私たちの思考や行動を支配する存在になりつつあります。今回のメルマガ『施術家・吉田正幸の「ストレス・スルー術」』では、いくつかの思考実験を交えながら、スマホが私たちの人間性に与える影響を探り、現代を生きる上での距離感の持ち方について考えています。
スマホが奪う「人間らしさ」とその代償 思考実験で考える現代の課題
スマホはもはや生活の補助具ではなく、私たちの「拡張された脳」の一部となってしまったようだ。
朝の目覚まし、ニュース、予定管理、買い物、友人との交流……すべてがこの手のひらサイズのデバイスに集約されている。
谷川嘉浩氏の著書『スマホ時代の哲学 なぜ不安や退屈をスマホで埋めてしまうのか』は、この便利さの裏で、私たちの人間性、倫理性、そして深い思考力が静かに侵食されている現実を突きつけた。
今回は、スマホと人間の関係性を主軸にあれこれこねくり回して具体的な思考実験を交えながら、その構造を多角的に掘り下げたいと思う。
暇を埋める機械と「熟考の筋肉」の退化
昭和世代の僕は、待ち時間や移動時間を「空白」として過ごしていたと思う。
電車の窓から景色を眺めながら、昨日の出来事を反芻し、未来の計画を組み立てる。こうした「内省の時間」が、倫理的判断や哲学的洞察を育てていたのだと改めて感じる。
しかし今、スマホはその空白を許さない。
SNSのタイムライン更新、動画の自動再生、短い記事やショート動画が、思考の流れを細切れにし、分散させる。結果として、長く深く考えるための「熟考の筋肉」が弱っていく。
スマホのない通勤1週間はどんな感じだろう?想像してみてほしい。仮にあなたが、1週間だけ通勤時にスマホを一切使わないとする。
最初の2日間は手持ち無沙汰で落ち着かないだろう。
しかし3日目以降、ふと景色の変化に気づき、頭の中で物語や計画を紡ぎ出す時間が生まれてくるはずだ。こんな体験は、「空白が生む思考の豊かさ」を強く実感させてくれだろう。
即時性が奪う倫理的熟慮
スマホの最大の魅力は即時性である。
知りたい情報は数秒で手に入り、感情をそのまま発信できる。しかし、その速さは倫理的熟慮を削ぎ落としていくようだ。
SNSでの炎上や誹謗中傷は、多くの場合「考える前に送信」した結果ではないだろうか。
これが即、「反応」の世界。本来なら「相手の立場を想像し、言葉を選び、場合によっては沈黙する」というプロセスを踏むべきところを、スマホはワンタップで省略してしまう。
もし全SNSが「投稿ボタンを押してから1分後に送信される仕様」になったらどうなるだろう。多くの衝動的な投稿は、その1分間のうちに削除されるはず。
この遅延は、怒りや焦りを冷ます「倫理的クッション」として機能し、コミュニケーションの質を大きく変えると感じるのは僕だけか。
アルゴリズムの檻に閉じ込められる思考
僕らがスマホで受け取る情報の多くは、アルゴリズムによって最適化されているらしい。怖さを感じる。
過去の行動履歴をもとに、好みそうな記事や動画だけが選ばれ、異なる意見や価値観は表示されにくくなる。これは「フィルターバブル」と呼ばれ、僕らの視野を知らないうちに狭めてしまう。
思考を練ったり、拡張したりするのには、むしろ「自分と異なる意見」に触れることである。しかしアルゴリズムはそれを“ノイズ”とみなし、排除してしまう。
もし1日だけ、あなたのSNSやニュースアプリが「普段なら絶対に見ない情報」だけを流したらどうなるだろう。
最初は不快かもしれないが、その中には新しい発見や価値観の拡張が潜んでいることは間違いない。この「逆フィード体験」は、思考の檻から一歩外に出る感覚を与えるというのに。
身体性の喪失と現実感覚の鈍化
スマホ利用は、視覚と指先操作に特化している。
そのため、長時間使用すると首・肩・目に負担がかかるだけでなく、現実世界における身体感覚そのものが希薄になる。
実際の人間関係は、声の抑揚や間合い、表情の微細な変化など、多層的な感覚によって成立する。
ところがスマホ越しのやり取りは平面的で、感情が見えにくい。このような人間本来のアクションによる気づき、雰囲気を感じる力も削ぎ落とす。
またまた、一週間だけ、友人や家族との連絡を直接対面か電話のみに限定してみるというのはどうだろう。相手の表情や呼吸、沈黙の時間がどれほど多くの情報を含んでいるかに気づき、文字だけのやり取りの脆弱さを実感するかもしれない。
社会全体への波及
スマホによる即時性と断片化は、個人だけでなく社会構造にも影響する。
いつもXエックスをみていて感じるが、政治的議論は短いスローガンに、教育はクイズ形式やショート動画解説に傾きつつある。
長文読解や複雑な思考プロセスが軽視されれば、社会全体が「短期的な反応」を優先する文化に傾きそうだ。
これは、民主主義や公共性の基盤を揺るがすかもしれない。
市民が熟考を放棄し、刺激的な情報だけを選び取るようになれば、政治も市場も「目先の満足」を追う方向に流れていくだろう。最近、娘に、「とにかく読書しなさい」とつい、言ってしまうのは自分の潜在意識が無意識に、「このままではマズイ!」と叫んでいるからだと思う。
もしすべての重要な政治判断が、発表から48時間は議論期間を設けてから投票される仕組みだったらどうだろう?
短絡的な決定が減り、情報精査や対話が促される可能性は高まる。スマホ的即時性の対極にある制度だけど、これが社会の熟考力を守る手立てになり得ると感じる。
スマホとの関係を再定義してみよう
かといって、スマホは悪ではない。
問題は、その使い方と距離感である。僕らが主体的に選んで使えば、スマホは人間性を拡張する心強いツールになり得る。
しかし無意識に使われ続ければ、思考・倫理・身体性が蝕まれていくだろう。当院にやってくる患者さんを見ていれば、必ずといっていいほどスマホによる無意識の緊張が身体に表れている。
実践として、特に大切だと感じる項目を4つ挙げてみた。
1.デジタル断食→毎日30分~1時間、スマホを完全に手放す時間を設ける
2.逆フィードの導入→あえて異なる価値観の情報源を探す
3.身体感覚の回復→対面の会話や自然の中での時間を意識的に増やす
4.遅延思考→感情的なメッセージは送信前に一度保存する
最後に……海を泳ぐ知恵
スマホは僕らの生活を飛躍的に便利にしたけれど、その便利さは人間らしさの代償と背中合わせである。
深い思考、倫理的熟慮、身体感覚は、一度衰えても意識的に鍛え直すことができる。
重要なのは、スマホの海に流されるのではなく、その上を自由に泳ぐ術を身につけること。
哲学者パスカルは「人間の不幸は、ひとりで静かに部屋にいられないことから始まる」と述べた。静寂や退屈を恐れず、その中に身を置く勇気こそが、僕らを深く、広く、生きた存在へと戻してくれる。
そして、ソクラテスが言ったように「吟味されざる生は、生きるに値しない」。スマホに向ける時間の一部を、自分自身を吟味する時間に置き換えること。
それが、テクノロジーと共存しながら人間らしさを守る、現代における新しい知恵なのではないだろうか。
僕らは、道具に支配される存在ではない。自ら選び、操る主体である。これは絶対に忘れてはならない。
参考図書
「スマホ時代の哲学 なぜ不安や退屈をスマホで埋めてしまうのか 【増補改訂版】 (ディスカヴァー携書) 」著者:谷川嘉浩
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