なぜ家族にも友人にも「愛読家」が存在しなかった文筆家は「読書が苦手」にならなかったのか?

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どんな人でも少なからず持ち合わせている、特定の行動に対する苦手意識。しかしそれが「思わず手が伸びてしまうような行為」を遠ざけてしまう要因になっているとするならばあまりにもったいないと、文筆家の倉下忠憲さんは指摘します。そんな倉下さんは今回のメルマガ『Weekly R-style Magazine ~読む・書く・考えるの探求~』で読書を例に取り、自身が「本を読むことが苦手だと思ったことがない理由」を分析。さらに「苦労」と「苦手」の違いについて考察しています。。
※本記事のタイトルはMAG2NEWS編集部によるものです/原題:読書は苦手ではない

読書は苦手ではない

読書猿さんの『苦手な読書が好きになる! ゼロからの読書教室』という本のタイトルに興味を覚えました。帯にも「本は好きだけど読書は苦手……」というフレーズが大きく飾られています。

「読書が苦手」

これまでの人生で、そんなことを感じたことは一度もありません。もちろん、自分は読書のサラブレッドで若い頃からずっと得意だった、と自慢したいわけでもありません。むしろ得意だと思ったこともないのです。

苦手だと思ったこともなければ、得意だと思ったこともない。

なぜなんだろうか、とちょっと気になりました。

■比較対象

思い当たる理由は一つしかありません。私の身の回りに本を読む人がいなかったからです。

家族にも友人にも、いわゆる「読書家」はぜんぜんいませんでした。むしろ私だけが本を読んでいた。もし、周りの人が熱心な読書家で、一度読みはじめたらすごい集中力で読み進めていたら、15分程度で本を投げ出してしまうと「ああ、自分は読書が苦手なんだ」と思うでしょう。

一方で、周りに本を読む人がいなければ?

自分がやっていることが、その行為の基準になります。15分で本を投げ出すのが読書という行為の「普通」になるのです。もちろん、好みの本はよく読めるけども、そうでない本はぜんぜん進まないとか、ある作家だけはどうしても読めない、ということも「普通」です。

そのような「できなさ」があっても、苦手という感覚にはなりません。それは「得意」という比較対象を持たないからです。当然それは得意という感覚にもなりません。「苦手」という比較対象を持たないからです。

自分がやっていることが行為の基準。非常に傲慢な響きがありますし、実際その通りではあるのですが、少なくとも自分がすでにやっている行為を「苦手」と感じることは避けられています。

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