今から約55年前の昭和45(1970)年11月25日、三島由紀夫が自決したあの日、もうひとりの若者もその場で命を絶ちました。今回のメルマガ『佐高信の筆刀両断』では辛口評論家として知られる佐高信さんが、その若者であり「永遠の25歳」森田必勝に関する興味深いエピソードを明かしています。
三島由紀夫とともに自決した森田必勝
『昭和20年生まれ25人の気骨』を緊急に出すことになり、私と同い年の80歳をピックアップしたら、三島由紀夫とともに自決した森田もそうだった。
まだ戦争が終わっていない中で、「必勝」と名づけられたのだろう。
1970年11月25日、25歳で亡くなったわけだが、成長するにつれて、「マサカツ」より「ヒッショウ」と呼ばれることを好んだという。
3歳にして両親に病死され、16歳年長の兄をはじめ、姉たちが親代わりとなった。
ミッションスクールの私立海星学園に学び、中学3年の年頭の日記には、こんな決意を記している。
- 毎日々記をつけるべし
- 年間1万5000円を貯めること
- 海星高校で3番になること
- 初恋をすべし
- 体を鍛えるべし
後に必勝は「兄貴が日教組に入っていたから、それに対する素朴な反発があった。民族運動に入ったのもこれがきっかけだった」と、楯の会のメンバーに告白しているが、そう単純ではない。
兄の治が、三重県の四日市で中学の教師をしており、日教組に入っていたことは確かだが、1960年10月12日、日本社会党委員長の浅沼稲次郎が、右翼少年に刺された日の日記に、必勝はこう書いているからである。
「今日、僕が政治家で一番好きであったところの社会党の浅沼委員長が、17歳の山口二矢という暴漢に刺殺された。本当に可哀想だ。日比谷公会堂での出来事─」
弱者に味方する心情から右翼テロに反発し、「ぼくは左翼だから」といった時期もあった。
この記事の著者・佐高信さんのメルマガ
2014年11月16日、四日市で若松孝二監督の映画『11・25自決の日─三島由紀夫と若者たち』が上映された。
三島役が井浦新、必勝役が満島真之助、そして三島夫人役が寺島しのぶ。
若松は「事件について調べたり、予備知識を入れる必要はない。先入観を持ってもらっては困る」と言ったが、満島はすべて調べ、アポイントなしに森田家を訪ねた。
幸い、兄の治が在宅していたので、必勝役をやることになった者です、と名乗った。当時はまったくの無名で、ウサン臭いと思われたのか、返答がない。
実は兄は会った瞬間、弟が帰ってきたと衝撃を受けて、声が出なかったのだという。
実は、愛国の烈士として森田家を訪ねて来る若者はずいぶんいる。
しかし、「弟が帰ってきた!」とハッとなったのは満島だけだった。
早稲田大学で必勝を民族運動に誘ったのは、新右翼の一水会を立ち上げた鈴木邦男である。
その鈴木が兄に、「生きていたらかなりの年になりますよね」と言ったら、兄は即座に返した。
「いや、弟は今でも25歳のままです」
55年経っても25歳なのだ。
この記事の著者・佐高信さんのメルマガ
image by: ANP scans 8ANP 222), CC BY-SA 3.0 NL, ウィキメディア・コモンズ経由で