本日2026年4月20日、シティポップと呼ばれる音楽をいち早く作曲し、そのサウンドを生み出したミュージシャンたちをプロデビューさせるキッカケを作り、そして近年の世界的なブームを作り上げた一人であるシンガーソングライター・作曲家の滝沢洋一(たきざわ・よういち)が56歳の若さで逝去した2006年4月20日からちょうど20年目の日になります 。そして本年は、のちに日本の音楽シーンを牽引するトップ・ミュージシャンたちを輩出した滝沢のバックバンド「マジカル・シティー」結成50周年という節目の年でもあります 。
本記事では、ある一曲から始まった奇跡、そして40年以上の時を経て陽の目を見た幻の2ndアルバム『BOY』、さらに滝沢が西城秀樹へ提供した曲として知られる名曲「かぎりなき夏」をめぐる奇跡の物語を振り返りながら、没後20年にふさわしい「新たな音源の発見」について初公開します。
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プロローグ:「童謡」の入ったオープンテープに隠された一曲
2026年3月、私は老舗オーディオ・レコーディング機器メーカーTEAC社の関連会社ティアックカスタマーソリューションズからの連絡を待っていました。
今から遡ること丁度20年前の2006年4月20日、わずか56歳の若さで持病の肝臓疾患によって亡くなったシンガーソングライター・作曲家の滝沢洋一さんは、生前に自宅の段ボールに過去のデモテープを大量に保管していました。
発見されたテープの一部
私は、音楽ライターとして滝沢さんの音楽の軌跡と生涯について丸5年以上取材を続けていますが、その取材過程で、この大量のテープを滝沢さんの奥様・佳子さんに発見していただいたのです。
そんなテープ群の中に、「滝沢洋一作品集」と油性ペンで大きく書かれた1本のオープンリールテープがありました。
このテープは以前、劣化していることを理由に業者からデジタル化を拒否された経緯があるものでした。しかし、「このテープには何か貴重な音源が入っているに違いない」という私の直感をたよりに、どうしてもデジタル音源化をしたいと考えていたのです。
私はネット検索で、オープンリールデッキやレコーディング機器メーカーの老舗であるTEAC社が、アナログテープ類をデジタル化するサービスを関連会社でおこなっていることを知りました。
そこで、一縷の望みに賭けて、このテープのデジタル化をお願いしてみることにしたのです。
すると、ご担当の方から以下のようなメールが返ってきました。
「お送りいただいたテープが弊社に到着しましたのでご連絡申し上げます。ご送付くださりありがとうございます。
こちらは著名なミュージシャンの方の作品とのことで、弊社の作業が権利侵害等に当たらないか少し不安があるところです。つきましては大変恐れ入りますが、ご依頼いただくにあたっての経緯等をお聞かせいただけましたら幸いでございます。可能な範囲で結構ですのでどうかご検討いただけますようお願い申し上げます」
確かに、滝沢洋一さんの名前が大書きされたオープンリールテープが突然よく分からない者から送られてくれば、企業に勤める社会人にとってそう思うのが普通の反応だと思います。私は、以下のように返信いたしました。
「ご連絡ありがとうございます。私は2021年より、ペンネーム都鳥流星(みやこどり・りゅうせい)の名前で、音楽ライターとして活動しております。このライター名は、作曲家でシンガーソングライターの滝沢洋一さん(2006年没)のことを書くためだけのペンネームになります。
お送りいたしましたテープについてご説明させていただきます。テープは、私が滝沢洋一さんを取材する過程で発見いたしました。
詳しい経緯につきましては、私が書いたネット記事がございますので、ご参照いただけますと幸いです。
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滝沢さんの「お蔵入り」になった1982年発売予定のセカンドアルバム『BOY』のマスターテープを捜索している際、当時のワーナーパイオニアのハウスエンジニアだった石崎信郎さんへの取材で、滝沢さんに同アルバムのコピーテープを渡したという証言を得ました。
そこで、ご遺族(滝沢さんの奥様)に依頼し、自宅内にオープンテープが保存されていないかご確認いただいたところ、引っ越し用の段ボールに40年近く入ったままのテープ類を発見していただきました。今回ご送付したテープは、その時に発見されたテープの一部になります。ご遺族からは2021年にテープ類をお預かりし、音源をデジタル化することで、彼らの音楽活動の全貌を記事にしてまいりました。その経緯につきましても、記事にしておりますのでご参照ください。
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すでに、彼のバックバンド「マジカル・シティー」(青山純、伊藤広規、新川博、牧野元昭)とのデモテープはデジタル音源化が済んでおり、彼の生前の唯一作だった『レオニズの彼方に』のアウトテイク(アルバムに入らなかった未発表曲)もデジタル化が終わっております。
しかし、最近になって、まだ音源化されていないテープがあるとのことで、新たにお預かりしたのが今回のテープです。ご自宅で録音したものであり、自作のデモテープと思われるものになります。ご不明点などございましたら、いつでもご連絡くださいますよう、よろしくお願いいたします」
すると後日、とても丁寧な返信メールがティアックカスタマーソリューションズのご担当者から届きました。
「ご用命に至る経緯とご執筆記事等の詳細をお知らせくださり感謝申し上げます。お忙しいところお手を煩わせ大変失礼いたしました。
テープ類を発見された際の記事も拝読いたしました。
このような貴重なテープの作業について、数ある業者より弊社にお声掛けいただきましたこと大変光栄に存じます。
お預かりした原版のデジタル化を承らせていただきたく改めてお願い申し上げます。
まずは、作業担当者にて現物を拝見の上、御見積書をご送付申し上げます。今しばらくお時間を頂戴できますと幸いです」
私は、安心と不安が入り混じる複雑な気持ちになりました。デジタル化を快く受け入れてくださったのは良かったのですが、もし、こんなに丁寧な信頼できる会社でも「この劣化したテープのデジタル化は難しい」と言われてしまうと、もう後が無くなってしまうからです。
ドキドキしながら連絡を待っていると、作業担当の方から、以下のようなメールが送られてきました。
「オープンリールテープの中ほどでテープがリールの隙間に巻き込まれておりました。その部分のテープはくしゃくしゃになっており音飛びが発生します」
私は、そのことを了承した上で、デジタル音源化をお願いしました。何とかテープが回ってほしい。そう願わずにはいられませんでした。
数週間ほど経ったある日、ティアックカスタマーソリューションズの作業担当者の方から、テープの音源化が終わったとの連絡がありました。
緊張しながら音源を聴いてみると、中に入っていたのは、幼児向けの「童謡」ばかりでした。
おそらく、滝沢さんのお子さんのためにレコードやカセットからダビングしたのでしょうか。子煩悩だったと聞いていた生前の滝沢さんのお人柄がしのばれます。
しかし、テープの童謡の曲がピタリと止まり、突然、美しい旋律が流れ始めたのです。
「もしかして……」
私は、イヤホンを押さえる手を震わせながら、何度も何度もその曲を聴き直しました。
時空を超えた再会。「メモランダム」が繋いだ縁
昨今、世界的なブームとなっている日本の70年代後半から80年代にかけて作られた「シティポップ」と呼ばれる楽曲たち。そんな音楽ジャンルの誕生や世界的ブームのキッカケを作った一人が、シンガーソングライターで作曲家の滝沢洋一と彼のバックバンド「マジカル・シティー」であることを、私は丸5年以上の取材によって突き止めました。
本記事で初めて「滝沢洋一(たきざわ・よういち)」という名前を目にした方もいらっしゃると思いますし、すでにMAG2 NEWSの記事として複数回書いた記事を読んでいただいた方もいらっしゃると思いますが、改めて私と滝沢さんの音楽との出会い、そして彼の音楽家としてのキャリアと生涯について簡単に振り返ってみたいと思います。
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すべての始まりは、1982年に私の母が買ってきたコーラスグループ「ハイ・ファイ・セット(Hi-Fi Set)」のベスト盤カセットテープでした。当時7歳だった私が耳にした一曲が、滝沢さんによって1977年に作曲された「メモランダム」(作詞:なかにし礼)でした 。
流麗なストリングスと都会的な哀愁を纏ったその旋律は、数十年を経てなお記憶の底で輝き続けていたのです。時は流れて2020年12月、世界的なシティ・ポップブームが到来する中、私は音楽サブスクでこの曲と再会し、「曲を作った人は誰なんだろう?」という素朴な疑問を抱きました。
ネット検索の結果、出てきた名前は「滝沢洋一」 。しかし、当時はWikipediaすら存在せず、彼が2006年に56歳で病死していたこと、そして1978年に唯一のソロアルバム『レオニズの彼方に』を遺していたことだけが断片的に判明しただけでした。
『レオニズの彼方に』(1978/東芝EMI)
昨今のシティポップブームを牽引する音楽ライター・金澤寿和氏が10年以上の歳月をかけて2015年7月に初CD化を実現させていた滝沢さんのソロアルバム『レオニズの彼方に』は、音楽マニアの間で「職人たちによる隠れた名盤」「捨て曲なしの奇跡の一枚」と称えられていました。
私は、これだけ素晴らしい曲を作っていたのに、ネット上で何も情報が出てこない滝沢さんの音楽活動と生涯に関する取材を、2021年より開始します。
そこには、単なる一人の作曲家の足跡を超え、日本のシティポップ史を根底から支えたミュージシャンたちの「原点」の軌跡が隠されていました。
伝説の胎動。滝沢洋一と「マジカル・シティー」という若き天才たち
滝沢洋一という音楽家の特筆すべき点は、彼が単なるソングライターであっただけでなく、卓越した先見性を持つ「縁の繋ぎ手」であったことです。
1975年、滝沢さんは外交官の息子たちが住む男子学生寮「子弟育英寮」(東京・市ヶ谷)で、のちに日本を代表するミュージシャンとなる若者たちと邂逅します。
それは、ドラムの青山純(18歳)、キーボードの新川博(20歳)、ギターの牧野元昭(19歳) という伝説的なメンバーで、彼らを自身のバックバンドに誘います。少し遅れて翌76年には、ベースの伊藤広規(21歳)が加入しました。
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1975年頃にマジカル・シティーのメンバーと市ヶ谷・育英寮で。左の帽子の男性が滝沢。真ん中上が牧野、下が青山、新川の各氏。まだ伊藤の加入前に撮影(滝沢家提供)
つまり、のちに山下達郎の名曲「RIDE ON TIME 」やアルバム『FOR YOU』、竹内まりやの「プラスティック・ラブ」のリズムを手がけ、また数々の大ヒット曲をアレンジすることになる彼らが結集したこのバックバンドが「マジカル・シティー」だったのです。
彼らは、滝沢さんの楽曲「最終バス」をきっかけに、ロビー和田というプロデューサーを通じて、アルファレコードと繋がることになります。そして、アルファの「音羽スタジオ」にて、滝沢さんらの新曲を形にするための膨大なデモ録音を重ねました。
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バンド活動の中で衝突もありました。ある日、キーボードの新川さんは、青山さんのドラムに対して「この下手くそ!」と叫び、バンドの「解散危機」を迎えます。そこで、ベースの伊藤さんは青山さんと一緒に二人で長野県・志賀ハイランドホテルへ「リズム合宿」へ出かけたことが分かりました。スキー板の乾燥室で練習した結果、東京に戻った二人の演奏を聴いた周りは「上手くなった」「すごい」とベタ褒め。このリズム合宿こそが、のちの日本のポップス史を大きく変えることになります。
ドラムの青山純(左)、ベースの伊藤広規(右) 画像提供:伊藤広規Office
青山純さん(2013年に56歳で逝去)が遺した1977年のスケジュール帳には、連日のように「滝沢ex(滝沢さんのデモ録音)」という文字が刻まれていました。滝沢さんの作品を録音するために集められた彼らが、「自分たちの音楽」を創り上げるために若き情熱を燃やしていたことが伝わってきます。そんな試行錯誤の上に完成したのが、滝沢さんのデビューアルバム『レオニズの彼方に』(1978/東芝EMI)でした。マジカルのメンバーは、このアルバムの全曲アレンジを担当したキーボディストで、YMOへの参加を断ったことでも知られる佐藤博と繋がります。
この時期のデモテープ制作や「リズム合宿」での特訓が、のちに日本の音楽シーンを塗り替える「黄金リズム隊」や「人気アレンジャー」としての骨格を作り上げたことも、この取材を通して判明したのです。
作曲家としての栄光と「お蔵入り」の悲劇
その後、滝沢さんは70年代後半から80年代にかけ、アルファの有賀恒夫氏ら名プロデューサーの信頼を得て、歌謡曲やポップスの作曲家として活躍し始めます。
サーカス、ブレッド&バター、西城秀樹、いしだあゆみ、桜田淳子、石川秀美、岩崎宏美、白石まるみ、小泉今日子、AMY、石黒ケイ、松本伊代、清野由美、大野方栄、伊東ゆかり、山下久美子、富田靖子、小田茜、そしてビートたけしetc…。彼が生涯で提供した楽曲は100曲超、そのどれもが洋楽仕込みの洗練されたメロディと転調の多いハイセンスなコード進行が特徴でした。
しかし、順風満帆かに見えた作曲家活動の陰で、大きな悲劇が起きてしまいます。1982年、ワーナー・パイオニア(当時)から発売されるはずだった待望の2ndソロアルバム『BOY』が、発売直前の編成会議で選考に漏れ、突然の「お蔵入り」を宣告されたのです。
日本初のリゾートスタジオである「伊豆スタジオ」にて、徳武弘文ら凄腕ミュージシャンとともに約10日間にも及ぶ合宿レコーディングを経て完成し、先行シングル「サンデーパーク」も発売されていた中での非情な決定でした。
『BOY』合宿の様子。右側で酒瓶を持っておどけているのが滝沢、中央の茶色いメガネの男性がアレンジ担当の徳武弘文、その後に座る首にタオルを巻いた男性が石崎信郎氏、右手前で椅子に座っているのが庵豊氏。提供:滝沢家
『BOY』のプロデューサーだった庵豊(いおり・ゆたか)氏によれば、当時のレコード会社の体質変化が「お蔵入り」の原因だったと言います。
精魂込めて作った作品が日の目を見ないという失望感が襲う中、83年以降にアルファ(ケイミュージック)との作家契約が切れたことで、滝沢さんは80年代後半からフリーの作曲家となり、仕事が激減してしまいます。そして86~87年の一時期、楽曲制作から離れて「宅配ピザ屋エイミーズ」を経営するなど、音楽家としては苦難の時代を過ごすことになりました。
ピザ屋を経営し始めた当時の滝沢(80年代後半頃)
後進の育成につとめた晩年。持病に蝕まれていた身体
しかし、音楽への情熱は消えていなかったのです。80年代後半には、自宅にて作曲した曲のデモを録音し、数多くの未発表曲をテープに吹き込んでいました。そして、東京・青山でレストランを経営する会社経営者等からの依頼で、NHK BS向けのエアロビクス用の楽曲を制作したり、IBMのイベント向け楽曲を作曲するなど、音楽に関する仕事も続けていたのです。
そして、90年代に一つの転機が訪れます。通信カラオケ大手「JOYSOUND」の関係者から「通信カラオケというものをこれから始めたいので手伝ってくれませんか?」という声がかかります。通信カラオケで配信するためのオケの楽曲を、DTM(PCによる打ち込みの音楽、デスクトップミュージックの略)を使い、友人が講師をしていた音楽系専門学校に通う生徒や「音楽家の卵」たちを集めて大量に制作する仕事です。
契約の関係から、滝沢さんはこのカラオケ事業のための会社法人「株式会社ハウス・ティー」を設立。通信カラオケ用の曲作りは数千曲の規模となり、このとき作成した楽曲群が現在の通信カラオケの嚆矢となったのです。
しかし、そんな生活は長く続きませんでした。2年ほどで既存曲を作り終えてしまった段階で、あとに残る未制作の曲は「新曲」のみ。カラオケ楽曲制作が頭打ちとなってしまったことで、事業を縮小せざるを得ませんでした。
その後、滝沢さんは「これからの音楽制作はDTMの時代になる」という先見の明から、DTMによる楽曲制作を一般のミュージシャンにも広く浸透させるための音楽賞「NECムジカノーヴァ音楽祭」を、NECと「ぴあ」、博報堂の協力・後援を受けて主催。若き音楽家たちへのDTMの普及につとめました。現在、音楽制作の基本がDTMになっているのはご承知のとおりです。
NECムジカノーヴァ音楽祭の広告
そのほか、小中学生の若き才能を発掘するための「トレジャーオーディション」というボーカルスクールも世田谷・成城で開催するなど、自身の作曲活動や音楽制作から離れたあとも後進の育成につとめていたのです。
そんな滝沢さんの身体を「病魔」が蝕んでいました。2005年秋、体調不良になったことから病院で診てもらうと「これはまずい」と即入院。持病の「B型肝炎」が原因で、肝臓がんが悪化していたのです。
11月の終わりに手術、年が明けて2006年2月にいったん退院して時々通院していたものの3月終わりに症状が悪化し再入院となりました。
晩年の滝沢、自宅で愛猫と
奥様によれば、食べ物も食べられなくなり、「友だちにも姿を見られたくない」との思いから、入院していることを誰にも知らせないようにして欲しいと伝えていたといいます。
多くの音楽仲間たちも病気の悪化や入院の事実を知らないまま、2006年4月20日、音楽家・滝沢洋一はわずか56年の生涯を終えました。
奇跡の音源発見。段ボール箱の中のテープと1本のDAT
しかし、滝沢さんが遺した楽曲が消えることはありませんでした。
死後9年を経て、それまで唯一作だったソロアルバム『レオニズの彼方に』が音楽ライター・金澤寿和氏の尽力によって初CD化。その後、このアルバムはサブスクで世界配信され、世界中の音楽ファンが聴けるようになったのです。このアルバムに収録された、セルフカバーの「メモランダム」を聴いたことで、私は滝沢さんのことに興味を持ち、その後5年にわたって彼と彼のバックバンドに関する取材を続けることになりました。
そして2021年、幻の2ndアルバム『BOY』お蔵入りの悲劇から約40年を経て、再び「運命の針」が動き出します。きっかけは、私が当時のエンジニア・石崎信郎氏を探し出したことでした。石崎さんの「滝沢さんにコピーテープを渡した記憶がある」という証言を頼りに、奥様にテープの捜索を依頼し、引っ越しの段ボール箱に埋もれていた大量のオープンリールテープを発見しました。
さらに、『BOY』のミックス済みマスターテープが行方不明になっていた窮地を救ったのは、滝沢さん経営の音楽制作会社ハウス・ティーでカラオケ事業を手伝っていた元スタッフ・小林清二氏です。私が偶然見つけた小林氏の古いブログにコメントを残したことがきっかけで連絡が取れ、彼が30年以上も捨てずに持っていた一本のDAT(デジタルオーディオテープ)に、失われたはずの『BOY』の全音源が収録されていたことが判明したのです。これを参考に、マルチマスターテープからミックス作業が行われ、MAG2 NEWS運営元の「株式会社まぐまぐ」からの資金サポートを得て、イチからミックス作業をおこなうことが可能となりました。
「滝沢さんが天国から働きかけているような不思議な気持ち」と小林氏が感じたほど、いくつもの偶然と幸運が重なり、2024年12月18日、2ndアルバム『BOY』(ソニー・ミュージックレーベルズ)は42年の時を経てついに初リリースされたのです。
幻の名曲「かぎりなき夏」と海を超えた共鳴
アルバム『BOY』の白眉とも言える楽曲が、「かぎりなき夏」です。もともと『BOY』のために書かれながらもお蔵入りになったこの曲を、滝沢さんは旧知のディレクター・岡村右氏を通じて西城秀樹に提供しました。アルバムB面の2曲目にひっそりと収録された「かぎりなき夏」は、のちに隠れた名曲として再発見されることになります。
西城秀樹『GENTLE・A MAN』(1984/RCA)
そして1984年に西城秀樹の歌声で発表された「かぎりなき夏」の演奏を務めていたのは、青山純、伊藤広規、新川博であることが、私の取材によって判明します。
そう、この曲は「事実上のマジカル・シティー再集結」による演奏だったのです。
この「かぎりなき夏」に魅せられたのが、米国シカゴのDJ、ヴァン・ポーガムでした。彼は2016年からYouTubeで日本のシティポップを誰よりも早く紹介し、現在の世界的ブームの「真の火付け役」となった人物です。
理不尽なアカウント削除(BAN)に遭いながらも、彼はこの曲の「感性に訴えかける美しさ」に魅了され、DJとしてシティポップの素晴らしさを伝え続けました。
そして2024年、私の仲介によって滝沢版のオリジナル音源を手にしたDJヴァンは、亡き滝沢さんへの敬意を込めたリミックスを完成させます。
「この曲から、私は“私自身を発見”した」
ヴァンの言葉は、滝沢洋一という音楽家が遺したメロディが持つ、普遍的で強力な磁場を物語っていました。
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「かぎりなき夏」が起こした“もう一つの奇跡”
2026年4月20日、没後20年の日を迎えた滝沢洋一さんの再評価は、もはや一時的なシティポップブームの枠を超え、音楽史の正当な位置付けへと変わりつつあります。かつて「早すぎた」と言われた彼のサウンドは、40年以上の歳月を経て、ようやく時代と一致し始めようとしているのです。
冒頭で紹介の、ティアックカスタマーソリューションズからあがってきた「デジタル化されていない最後のオープンリールテープ」。そこには、まるで滝沢さんが自身の没後20年のために温存していたのではないかと思うような楽曲が隠されていたのです。
あがってきたテープの音源を再生し、幼児向けの童謡が終わったあと、キラキラと輝くようなクリスタルサウンドが流れはじめました。
これは、確実に西城秀樹版の「かぎりなき夏」の音です。しかし、その後に聴こえてきたのは、秀樹版「かぎりなき夏」のオケに合わせて歌う、作曲者・滝沢洋一本人の声でした。
滝沢さんは自宅で密かに、秀樹版「かぎりなき夏」のオケに自身のボーカルを吹き込んでいたのです。
1982年、自身の歌う「かぎりなき夏」はお蔵入りになりました。しかし、運良く2年後の84年に西城秀樹という最高の歌い手がこの曲を引き継いだのです。
「本当は自分の声で歌いたかった」という無念さや「この曲は古びない」という自負もあったのでしょう。
滝沢さんは、手に入れたマジカル・シティー演奏の秀樹版「かぎりなき夏」のオケに自身の声をひっそりと重ね合わせていたのです。
正直に言えば、ラフな感じに歌った音源だと思います。しかし、かつて共にデビューを夢見た仲間たちによる演奏で、自分自身の傑作を自分自身の声で歌いたかったのかもしれません。
これほど最高の組み合わせの「かぎりなき夏」は他に無いのではないでしょうか。これが、節目の年に滝沢さんが天国から贈ってくれた「最後の奇跡」でした。
日本のシティポップ史の「失われたパズルのピース」。
それは、滝沢さんの死後20年とマジカル・シティー結成50年という時を経て、ようやく埋ったのです。
エピローグ:最新テクノロジーと未発表曲との融合
今回、ティアックカスタマーソリューションズにデジタル化してもらった音源、実はこれだけではありませんでした。
ほかにも、1982年〜1989年に作曲したものの採用されなかった未発表デモ曲を収録したカセットテープもデジタル化していたのです。
滝沢さんが自宅にてキーボードで演奏し録音していた未発表デモ曲を、なんとか現代の楽曲として復活させることはできないか? そう考えた私は、音楽生成AI「SUNO」を使い、デモ楽曲の音源を読み込ませ、AIに頼ることなく新たに自力で作詞した歌詞をつけることで現代に蘇らせる実験をおこないました。それが、以下の「I Say Hello」です。この楽曲は中森明菜がデビューした1982年に作曲されました。
近いうちに、こうして復活させた未発表の楽曲群を滝沢洋一のトリビュートバンドによる生演奏、そして生の歌唱で世界中のみなさまにお聞かせする計画を立てています。
滝沢洋一とマジカル・シティー。彼らの「かぎりなき夏」は、まだ始まったばかりです。(了)
Special thanks : (順不同)
滝沢家・鈴木家の皆様
粟野敏和
伊藤広規
新川博
牧野元昭
荒木くり子(伊藤広規office)
青山家の皆様
岡村右
天下井隆二
庵豊
金澤寿和
松永良平
濱田髙志
小澤芳一(TOKYO CITY POP)
森田聰美(Sony Music Publishing)
ALFA MUSIC
ありそのみ
ヴァン・ポーガム
小林清二
ティアックカスタマーソリューションズ
(本文内、敬称略)
“ENDLESS SUMMER” JAPANESE CITYPOP DOCUMENTARY 「かぎりなき夏」 ジャパニーズ シティポップ ドキュメンタリー
↑滝沢洋一とマジカル・シティー、「かぎりなき夏」にまつわるドキュメンタリー動画(監督:都鳥流星、2026年1月20日公開)はコチラ。
滝沢洋一関連情報
「かぎりなき夏」2024 Van Paugam Remix(C/W かぎりなき夏 1982Mix)アナログシングルレコード
滝沢洋一『かぎりなき夏』Van Paugam 2024 Remix アナログシングルレコード(C/W かぎりなき夏1982Mix)
発売元:ワーナーミュージック・ジャパン
販売元:株式会社まぐまぐ
販売先リンク:BASE特設ページ
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