なぜ真田信繁は敗れ、家康は徳川幕府300年の礎を築けたのか

Tokugawa_Ieyasu2
 

もしもあなたが変化を嫌い、今のままが一番との思いを抱いているようでしたら、未来はないかもしれません。無料メルマガ『ビジネス発想源』の著者・弘中勝さんは、戦国時代の三英傑が天下を獲れた理由として、「固執する気持ちがない」ことを挙げています。そしてそれは現代人にも当てはまる、とも。ビジネスマンとして成功したい方、必読です。

一拠点に固執しない

織田信長、豊臣秀吉、徳川家康たち、いわゆる戦国時代の三英傑が天下を取れたのはなぜか、その理由は多くの歴史家に研究されてきました。

その性格、家臣団をまとめる経営術、軍略の巧みさなど、いろいろな理由はあります。でも、全国各地の戦国大名や領主たちと見比べて、なぜ彼ら三英傑が天下を取って、その他の大名や領主たちは天下を取れないのか、という視点から見ると、私は思い当たることがあります。

それは何かというと、「一地点への固執がない」ということではないかと思います。

織田信長も、豊臣秀吉も、徳川家康も、尾張国や三河国、つまり現在の愛知県の出身です。でも、「さあ天下を取りましょう」という時に、自分が生まれ育った場所、もしくは長らく一族が拠点としていた場所を「ここを拠点に制覇していこう」とは考えずに、どんどん目的に応じて拠点を移しています

例えば、織田信長は最初は清洲城にいましたが、尾張国から複数の国を支配するにあたり、美濃国(岐阜県)の稲葉山城(岐阜城)に移ったり、近江国(滋賀県)の安土城に移ったりと場所を変えて楽市楽座のような拠点づくりをしました。

その家臣だった豊臣秀吉は、近江国の長浜(長浜市)を与えられたらそこを発展させ、全国を統一するために大阪城を建てました。

徳川家康は、最初は三河国を拠点にしていましたが、豊臣秀吉から江戸の田舎へ左遷されると、そこを利便性のよい都市に変え、幕府まで開き、会長職に引いたら駿河国(静岡県)で指揮を取ってます。

「一所懸命」という言葉があるように、武士にとっては自分の領地は命より大事で、いかにその地を守るかということに、各地の大名や領主たちは必死になっています。つまり、今の拠点をいかに守るかという発想です。

print
いま読まれてます

  • なぜ真田信繁は敗れ、家康は徳川幕府300年の礎を築けたのか
    この記事が気に入ったら
    いいね!しよう
    MAG2 NEWSの最新情報をお届け