日本文化に魅せられたポーランド人
文化交流の面では、フェリスク・ヤシェンスキの名を欠かすことはできない。ヤシェンスキはポーランド貴族の生まれで、20代には19世紀末のパリで芸術の勉強に打ち込んだ。当時のパリでは日本の美術、特に浮世絵に対する関心が高く、ジャポニズムという流れが若い画家たちに強い影響を与えていた。ヤシェンスキも強く浮世絵に魅せられ、生涯をかけて6,500点にも上る日本美術の一大コレクションを築き上げた。
ヤシェンスキは単なる異国趣味で日本美術を集めたのではなかった。当時、帝政ロシアやプロイセンなどに分割統治されていたポーランド民族の独立を夢見て、独自の民族文化に生気を吹き込むという使命に全力を捧げていた。そこから2,000年に渡って独立を守り通し、独自の文化を発展させた日本に魅せられていったのである。
日本の芸術を深く探求すればするほど、私の情熱はますます激しく燃え上がる。これほど非凡であり、洗練されており、大胆かつ精緻で、しかも感動的で魅力の溢れる芸術がほかにあるだろうか。
(『善意の架け橋 ポーランド魂とやまと心』兵藤長雄・著/文藝春秋)
友好の象徴、日本美術・技術センター
ヤシェンスキの死後、そのコレクションは一時クラコフ国立博物館に所蔵されていたが、ナチス占領下にたまたまその一部が公開され、それに衝撃を受けたのがクラコフ美術大学生アンジェイ・ワイダだった。
ワイダ氏はその後、ポーランド映画界の巨匠となり、87年に京都財団から受賞した京都賞の賞金全額を寄付して、ヤシェンスキ・コレクションのための独自の美術館建設を提唱した。ワイダ氏の呼びかけにポーランドと日本の多くの人々が協力して94年に完成したのが日本美術・技術センターである。ヤシェンスキは「北斎漫画」からとった「マンガ」をミドルネームにしていた機縁で、このセンターは「マンガ」館と愛称されている。
筆者がセンターを訪れたときは、かなりの数の青年たちが日本の掛け軸の展示を見ていた。喫茶室では何組かの若いカップルが日本茶を飲みながら、会話を楽しんでいる。喫茶室の巨大なガラス戸からは、ヴィスワ川の向こう側に壮大なヴァヴェル城が望める。日本とポーランドの友好の象徴であるこのセンターから、ポーランド民族の独立と統合の象徴たるヴァヴァル城を見上げつつ、私は自由ポーランドの繁栄を祈った。
文責:伊勢雅臣
image by: Shutterstock, Inc.