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【貧乏旅行記】バックパッカーがスペインの廃村で過ごした不思議な夜

前回、カンボジアの警察署長の男気に思わず涙をこぼしたあるきすと・平田さん。今回はスペインのとある施設で期せずして受けた施しと、廃村での奇妙なナチュラリストとの出会いを綴ります。撮ったはずの写真が一枚も残っていないという、不思議な一夜の様子をどうぞ。

あるきすと平田とは……

ユーラシア大陸を徒歩で旅しようと、1991年ポルトガルのロカ岬を出発。おもに海沿いの国道を歩き、路銀が尽きると帰国してひと稼ぎし、また現地へ戻る生活を約20年間つづけている、その方面では非常に有名な人だったりします。普通の人は何のために……と思うかもしれませんが、そのツッコミはナシの方向で……。

第8回 1991/10/3、サン・ペドロ。あんな時空間、ちょっとないinスペイン

激しくギターをかき鳴らし、色鮮やかでウミウシみたいなドレスで踊り狂うフラメンコ。簡素な甲冑を彷彿させる衣装をまとった細身のマタドールと巨大な猛牛のタイマン勝負、闘牛。参加者4万人がトマトまみれで真っ赤に染まる奇祭トマティーナ。牛の軍団に追っかけられてけが人死人あたりまえのデンジャラス祭り、サン・フェルミン祭。ほんと、情熱の国だねえ、スペインは。

今から20数年前の1991年、そんなスペインを僕は8月25日に西隣のポルトガルから入って11月23日に北東隣のフランスに抜けるまでの約3ヶ月間、ほぼ地中海沿いに2,159キロ徒歩旅行した。

入国してすぐ、道路沿いの家のテラスから声がかかる。

「オラッ、アミーゴ(やあ、友だち)!」

振り向くと、小麦色の肌を、ほらほら見せちゃうよ~っと露出度全開にしたキュートな女の子たちが、こぼれるような笑顔で僕に手を振っていた。当時、僕は29歳。そんな経験、日本で皆無。なんかいいことありそなスペイン。よし、がんばって歩くぞ。そんな気分にさせてくれるお出迎えだった。

スペインではさらに、若い女性が運転する車がしばしば停まってくれた。僕をヒッチハイカーと間違えて、乗っていけと誘ってくれるのだ。

ああ、今からおもえばわたしはピュア過ぎた。歩き出したポルトガル以来、ヒッチハイクどころか街なかを走る路線バスやデパートのエレベーターにエスカレーターなど、ありとあらゆる乗り物を拒否する徒歩原理主義者だった僕は、そんな魅力的なお誘いさえ全部断って歩きとおしたのだった。もしあのコの車に乗っていたら、ワクワクするアバンチュールに発展していたかも。もしあのコの車に乗っていたら、今ごろ僕にスペイン人とのハーフの娘がいたかも。もしあのコの車に乗っていたら、アホらしいユーラシア横断徒歩旅行なんてとっととやめてそのまま移住、フラメンコギタリストとして一躍勇名を馳せていたかも。もしあの子の車に乗っていたら……。

妄想はとめどなく暴走する。今になって思い起こすと、当時の自分の融通のきかなさにため息が出てしまう。バカバカバカ!

海沿いの大都市カディスめざして歩くわたくし。道路は立派だが歩道がほぼないことにご注意を。

ほぼ東西に走るピレネー山脈によって隣国フランスと隔てられたスペインは今でこそカソリックの国だが、8世紀初頭から15世紀末までの800年もの長きにわたり、北アフリカから侵入してきたイスラム勢力によって統治されていた国だ。とくに南部アンダルシア地方は彼らの牙城で、21世紀になった今でもグラナダのアルハンブラ宮殿や旧街区アルバイシン、コルドバのモスク転じて教会となったメスキータなど、往時の面影を色濃く残している場所も多い。

僕も徒歩でグラナダにたどり着き、夜遅く缶ビール片手に訪れたアルハンブラ宮殿の壁の闇と、上空にぽっかり浮かんだお月さまの淡い光のコントラストにうっとりしたものだ。

偶然その場で知り合った若い日本人女性がつぶやいた。

フェリーニの映画のワンシーンみたい」

フェリーニの映画を見たことなかった僕だが、ロマンチックなシチュエーションと耳ざわりのよい彼女のつぶやきに、その夜、ふたりのあいだになにかが始まる予感を感じていた。

>>次ページ 目指した宿がまさかの……

単なる勘違いだった。

タリファのミスコンの優勝者と準優勝者と。個人的には向かって右のコが好みである。

約3ヶ月のスペイン滞在中、マラガで闘牛を堪能したし、シエラネバダ山脈第2位の高峰ベレタ山(標高3,398メートル)も登頂したし、バルセロナでフラメンコも味わいサグラダ・ファミリアのてっぺんにも上がったし、フィゲレスでサルバドール・ダリ美術館も訪れたしと、いろいろスペインを満喫した旅だったけれども、徒歩旅行でなければ起こり得なかった体験を2発ほど。

まず、1991年9月30日、海沿いの人口20万弱の都市アルメリアで泊まった宿のこと。その夜、僕は市内にあるはずのユースホステルを探していた。町に到着した時刻が午後8時を過ぎていたためユースホステルで夕食にありつけるか心配だったので、チェックイン前にスーパーに立ち寄り、パンやハム、チーズ、レタス、魚の缶詰、ミネラルウォーターに牛乳、ビールなどの食料品を大量に買って持ち込むことにした。

この日は40キロ以上を歩き、ただでさえ疲労困憊したからだに重いリュックサックを背負ったうえ、さらに両手に重いレジ袋をひとつずつ下げた格好で、ユースの住所めざして夜道を歩く。

息も絶え絶えになったころにようやく町はずれのユースまでたどり着いたとたん、両目が点になった。なんと休業中じゃないか。あきらめきれずにチャイムを連打してみたけれど、館内に人の気配はない。がっかりして近所の人に聞いたところ、9月半ばまでのバカンスシーズンが終わると、このユースは休業するとのことだった。

時間も時間だ、早いところ安宿を探さなければならない。僕はトホホな気分で今来た道を街の中心に向かって引き返した。

しかし間の悪いことは重なるもので、バカンスシーズンがほぼ終わったといっても街なかの安宿はどこもここも時季遅れのバカンス客で満室状態。片っぱしから断られ、本当に行き場をなくしてしまった。前夜はアルメリマルのキャンプ場で寝袋ひとつで地べたに寝たので背中が痛い。できればこの夜はベッドで寝たいが、旅費は節約しなければならないので安宿以外は泊まれない。

よし、もう一軒だけ安宿を探そう。そこでも断られたら、がんばって海岸まで歩いていって野宿するしかない。

そう思案しつつ安宿のありそうな裏道を歩いていてようやく一軒見つけた。玄関の上の看板が暗くてよく見えないが、「RESIDENCIA なんとか」と書いてあった。レシデンシア。家とか館とか宿とかの意味で、雰囲気からそこが高級ホテルでないことははっきりしている。僕は最後の気力を振り絞って玄関をくぐった。

ロビーにはなぜかシャツやジーンズなどの古着が山積みされており、男がひとり、山の中からシャツを一枚一枚つまみ上げて品定めしている。まもなく背の低い、口ひげを蓄えた初老の男が笑みを浮かべて出てきて僕に挨拶した。

「ブエノス・タルデス(こんばんは)」

「ブエノス・タルデス。部屋は、ありますか?」

僕はダメもとで聞いてみた。

「スィー(はい)」

おお、部屋にありつける!シャワーで汗を流し、ベッド上で眠れる。やったぜベイビー。僕は精も根も尽き果て今にもぶっ倒れそうだったのに、この神の恵みともとれるひとことに小躍りした。目の前の短躯の好々爺然とした男の背後に、キラキラときらめく後光がはっきりと見えた。

彼に案内されて古着の山の横を通過し、建物の奥へと進む。リビングかレジャー室とでも呼べそうな一室では数人の男たちが声高に酒を酌み交わしていた。だいぶご酩酊のおっさんもいる。

そしてもっとも奥まった白壁の薄暗い部屋に足を踏み入れると、そこには20台ほどのビーチチェアーが一列に並んでいて、男たちが思い思いの体勢で寝転がっている。これは希望したシングル部屋ではなくてドミトリーじゃないか。それもユースホステルで何度か泊まったドミトリーとは明らかに雰囲気が違う。そこにいる全員がなんとなく怪しいのだ。

その光景に呆然としていると、後光が射した好々爺は空いたビーチチェアーのひとつを指さし、僕に向かって力強くうなずいた。どうやらそれを使えということらしい。

>>次ページ 宿代にビックリ仰天!

そうか、今夜は個室がすべて埋まっているので、大部屋で我慢しろということか。時刻は9時半をまわっている。戸惑いはあったが、今から外に出て宿を探しまわる気力も体力も残っていない。個室でなく大部屋だろうが雨露をしのげる屋根と壁があり、ベッドでなくビーチチェアーだろうが床にダイレクトに身を横たえなくてもいい環境が目の前にある。

「グラシアス。ムーチャス・グラシアス」

僕は彼にお礼を述べ、そして尋ねた、宿代はいくらですかと。

「クアント・クエスタ?」

デ・ナーダ

男はにこやかに答えると、大部屋から足早に去ってしまった。

デ・ナーダ。日本語の、どういたしまして。宿代がいくらかと尋ねて、どういたしましてという返答をどう理解すればいいのだろう。僕は不安になってポケットサイズの英語スペイン語辞典を取り出した。もしかすると「デ・ナーダ」には僕の知らない意味があるのかも知れない。

すると、「free」という英単語が載っていた。どうもこの場合、「タダ、無料」ということらしい。

どういうことだ?なんで宿代がタダなんだ。タダより怖いものはないというではないか。案内してきた男は好々爺に見えたが本当は悪党の親分で、あとから宿代を吹っかけてくるんじゃないかと心配になった。そして隣のビーチチェアーに横になって僕のしぐさを眺めていた50年配の男に宿代を確認すると、やはり返事は「デ・ナーダ」だった。

釈然としないがここはタダで泊まれる宿らしい。無料宿泊施設。スペインにはそんなありがたいところがあったとは知らなかった。大部屋を我慢すればタダで泊まれるのだ。旅費に窮してきたらまた利用しよう。しかしやはり館内の様子はなんだかおかしい

シャワーを浴び、ビーチチェアーに座りながら遅い夕食をとった。隣のレジャー室からはますます声高になった酔っぱらいのたわごとが響いてくるので、目をつむっても眠れない。暇つぶしにレジャー室へ行ってみると、酒を飲んでいたひとりが僕にカタコトの英語で話しかけてきた。

「チャイニーズ?」

そのころスペインではブルース・リーとジャッキー・チェンの映画が評判で、歩いているとよく子どもから「チャンチュンチョン」とか「チンチェンチャン」とかエセ中国語で声をかけられたものだ。スペイン人にとって中国語のイメージはそんなものらしい。

日本人観光旅行者が多くなったといっても、ちょっとした規模の町には中国人経営の中華料理店があったから、多くのスペイン人にとって細い目の東洋人といえば中国人だったのだろう。

「ノー。ジャパニーズ」

そう答えると、アラフォーの彼は目をまん丸く見開いたと同時に腕まくりした。なんだなんだ、日本人だとわかったらいきなりケンカを吹っかけてきやがるとは、やはりこの宿泊所はタダモノでない。

ひるんだものの、彼はケンカを吹っかけたのではなく、単に左の袖をまくって二の腕に彫られたタトゥーを僕に見せたかっただけだった。

>>次ページ なんと!お宿の正体は!?

それを見た瞬間、笑っちゃいけない、笑っちゃいけない、しかし奔流のごとくゲラゲラ笑いが腹の底から突き上げてきて抑えるのに必死だった。どうにか鼻の穴をひくつかせて爆笑をこらえ、再度タトゥーを見る。またまた爆笑の波動砲が胃袋からのど元まで湧き上がってきたのをかろうじてこらえた。

だって、彼の二の腕には日本語でこう彫られていたんだもの。

友だち

いまだにこんなに迫力に欠けるタトゥーを見たことがない。なんかほかに彫りようがなかったのか。

彼はカタコトの英語で懸命に左腕の「友だち」について語った。なにかの本の掲載写真で偶然この文字に目が留まり、美しいと感じた。「友だち」の意味もわからないのに地元の彫師に本を見せて彫ってもらったそうだ。「だ」の濁点がつながって一本線になっていたのはご愛嬌か。

意味を教えてくれというのでアミーゴ、アミーガ(友人)だと答えると、彼はうれしそうに微笑んだ。いい言葉だとおもったのだろう。

それにしてもこれがまだ「友だち」でよかった。もし彼が美しいと感じて彫ったのが「とろろ芋」とか「おじゃまんが山田くん」とか「野田どじょう内閣」とか「脱糞」だったらと想像すると、冷や汗が出る。

しばらく彼らと会話にならぬ会話をつづけているうち、さすがに眠くなった。おやすみをいって、隣室の自分のビーチチェアーに引き上げた。

翌朝8時半前、チリンチリンという鈴の音で起こされると、全員が2階の食堂へとせき立てられた。食堂には木製のテーブルが4卓あるだけで椅子はない。テーブル上には、プラスチックの白いコップに入った温かいカフェオレと10枚ほどのビスケットがセットになってそこここに置かれている。各自その前に立って初老の男の説教に耳を傾けたあと、胸元で十字を切って「アーメン」を唱え、優しく小鳥でも抱くように温かいカフェオレのコップを両手で抱え込んで暖をとりながら、ズズッ、ズズッと音を立ててすすっている。

僕も神妙な気分でそれらをいただいた。

軽い朝食を終えるとすぐ、僕以外の全員は口ひげの男に先導されて外出していった。

ロビーの古着の山といい、酔っぱらいのおっさんといい、ビーチチェアーといい、朝食つきのドミトリー代が無料といい、前夜から薄々もしかしたらと感じていたことが、荷物をまとめて玄関を出て、ここの看板にもう一度目をやって確信した。前夜は暗くてはっきり読めなかった看板にはこう書かれていた。

「レシデンシア・ヘスス・アバンドナード」(見捨てられたイエスの館)

やはりここはキリスト教の教会か慈善団体が運営するホームレスの収容施設だったのだ。知らなかったとはいえ、僕はひと晩ホームレスの収容施設に厄介になってしまったのだった。アーメン。

セビリア大聖堂のステンドグラス。あまりの美しさに魅せられ、つい洗礼を受けようか迷った。

その3日後の91年10月3日、さらに強烈な体験をした。場所の名はサン・ペドロ。いまグーグルマップで確認するとちゃんと載っている。当時愛用していたミシュランの道路地図にも載っていた。

しかしなぜこんな廃村の名を記載しているのだろうか。怪訝な話だ。

ミシュランの地図には、西隣のラス・ネグラスからサン・ペドロに向けて車の通れる道路が記載されていたから歩いていったものの、実際には海にせり出した山肌を強引に削って通した獣道レベルの細道で、人がすれ違うのがやっとの未舗装路だった。路面は登山道みたいに石ころがゴロゴロしているうえに柵もなく、足を踏みはずせば十数メートル下の波打ちぎわまで山肌を転がり落ちてしまう。当然、車なんか通れるはずがない。

こんな細道の向こうに本当に地図に記載されたサン・ペドロなる町があるのかどうか不思議でならなかったが、とにかく歩いた。で、眼前に現れたのは、ぐるりと山に囲まれ、開けた前面が地中海という猫の額ほどの平地だった。

三方を囲む山々は荒涼として、今にもガラガラゴロゴロと崩れ落ちそうな脆さがあった。まるで墨汁に朱を混ぜて描きなぐった巨大な水墨画の屏風が濃い青空めがけて屹立しているかのようだ。また南面する海はこれまで見たことのない深緑色を呈していた。白い砂浜に立って360度見回すと、パノラマの雄大さにオーッと感動の雄叫びを上げたくらいだった。

しかし猫の額ほどの平地に人工物はというと、一部崩れた石造りの古い要塞と壁だけになった数軒のレンガ造りの廃屋、それに湧き水くみ場1ヶ所だけだ。人影はない

>>次ページ 廃村で出会った奇妙な面々

なんだこれ?これが町か?しかし地図と照合してもサン・ペドロで間違いなさそうだ。さらに困ったのは、このサン・ペドロらしき廃村の外へとつながる道路が、いま自分が通ってきた獣道みたいな細道以外どこにもないことだった。

呆然とした。ミシュランの地図ではサン・ペドロから北上する道が通り、その5、6キロ先にアグア・アマルガという町があって、僕はこの日アグア・アマルガまで歩くつもりでいたのだ。なのに、陸地はすべて山で塞がれている。海に面した砂浜沿いに抜け道があるのかもしれないと思い返して砂浜を歩いてみたが、海へとせり出した岩山に行く手を遮断されて徒労に帰した。

こうなると早いところ例の細道を引き返してラス・ネグラスに戻らないと晩めしにもビールにもありつけないし、野宿する羽目になってしまう。しかたなくラス・ネグラスに引き返すことにした。

ところが前方から若い男がひとり、リュックサックを背負ってやってきたではないか。かなりの長身で、精悍な顔つきのスペイン人だった。

すれ違うのも厄介な細道で事情を話すと、意外なことにサン・ペドロから北上してアグア・アマルガへ抜けることは可能だというではないか。道もないのになぜ可能なのか、お互いのつたないスペイン語と英語の語学力でははっきりしなかったが、

「オレはサン・ペドロに10日間住んでいる。絶対にアグア・アマルガへ行けるよ。それにサン・ペドロにはオレ以外にも5人いるぞ。だから君も今夜はサン・ペドロに泊まりなよ」

なんと、あの廃村に人がいたのか。こりゃたまげた。いったいどこにいたんだろう。

そして僕はその夜サン・ペドロで、彼――フリオといった――やほかの連中と奇妙な一夜を過ごすことになる。しかしあれは夢や幻ではなかったか。20年を経た今でさえ、ときどきあの一夜のことを思い返すのだ。ほんとうに現実だったのだろうかと。

僕はフリオの言葉を信じて彼の後についてサン・ペドロに戻った。

「ここで寝たらいい」

フリオはそういうと一軒の廃屋のひと部屋を指さした。崩れ落ちたレンガ壁には黒いペンキでなにやら落書きされている。床は砂まみれで、屋根は部屋の半分だけを覆い、残り半分は場違いな青空が見える。日が暮れると幽霊でも出そうなおどろおどろしい空間だった。お世辞にも住み心地がいいとはいえない。ちなみに彼のねぐらは隣の似たような廃屋の一室だった。

しかしそろそろ日も暮れる。この時間からベターなねぐらを探すのは無理だろう。僕はフリオの言葉にしたがって床にリュックをおろした。

しばらく床に敷いたマットに疲れた身を横たえて潮騒に耳を傾けていると、ここの住人が3人連れだってやってきた。

「オッラー!」

「オラ」

「ハッロー!」

スペイン語で声をかけてきたふたりは20代後半の男たちで、そのうちのひとりは20本ほどの笛を入れたバッグを肩から下げていて、もうひとりはどうしたことか、鼻がムギューッと右側にひん曲がっている。英語の「ハッロー!」は、ショートカットでボーイッシュな20歳前後の女の子だった。フリオはいないが、先ほど彼がいっていたサン・ペドロに仮住まいする6人のうちの3人だろう。これで僕は6人中4人と顔を合わせたことになる。

目の前にいる3人全員がスペイン人で、サラーという名の女の子が英語でいろいろ説明してくれた。

サン・ペドロは数十年前に全住民が移住してしまった廃村で、今では一部のナチュラリストだけが知っている秘密の楽園なんだそうだ。

「ここの自然ってすばらしいでしょ。山も海も空も。それに、気づいた?ここの地面も山も、陸地は全部化石でできてるのよ。ロマンチックじゃない?」

そういわれて部屋の外へ出てしゃがんでみると、あ、ホントだ。地べたは完全に二枚貝、巻貝、サンゴその他の化石で覆われていた。石の合間に化石を見つけるというのではなく、本当に地べたそのものが化石の集合体なのだ。歩いていてまったく気づかなかったが、この様子だと、サラーがいうようにサン・ペドロを取り巻く屏風のような山々がすべて化石で成り立っていても不思議はない。海底だった場所が地殻変動で隆起したものだろう。

そういえばここの山々を見たとき脆そうな印象を受けたのは、化石が堆積してできた山だからではないだろうか。僕は、自分のまわりの大地がすべて化石でできていると知って興奮してしまった。

コニル・デ・ラ・フロンテラのキャンプ場でスペインの大学生たちと。個人的には中央奥のコが好みである。

>>次ページ スペイン版!一夜限りの”男女7人秋物語”

部屋に戻ると、サラーがまた解説してくれる。

「ここにいる6人はみんな、オリエンタルなものが好きなの。『ZEN(禅)』、『BONSAI(盆栽)』、『KONBU(昆布)』、『KARATE空手)』、『TAO(道)』、『TAICHI(太極拳)』、『YOGA(ヨガ)』。わたしはダンサーなんだけど、呼吸法や精神統一に禅やヨガ、空手、太極拳を取り入れているし、昆布でとるダシは自然食でからだにいい。ホント、東洋文化はすばらしいわ」

そういうと彼女はその場でいきなり三点倒立した状態で腹式呼吸を始めた。

それにしても昆布ダシまで出るとは、かなり重度のオリエンタルフリークである。

ところで鼻の曲がっていないほうの男、ホセ・フェルナンデスが横笛を奏で始めた。哀愁を帯びたメロディーで、南米インディオの古い曲だそうだ。うまいもんだ。

お返しにハーモニカで稚拙な「竹田の子守唄」を吹いたらひどく喜んでくれて、すぐに笛で伴奏してくれた。サラーも鼻歌でハモる。

本職がペンキ職人のホセ・フェルナンデスは、趣味で竹笛を作っていた。すでに12日間、鼻の曲がった笛作りの弟子エミリオとサン・ペドロに住んで笛を作りつづけているという。

また、サラーとフリオはカップルで、バルセロナからバカンスで来ていた。デビッド・ボウイの大ファンだという彼女はバルセロナ公演のチケットを買うために、売り場前になんと12日間も並んだそうだ。昆布ダシといい、チケットとるのに12日間並ぶといい、かなり風変わりなヤツだ。すごいねえというとサラーは、

「あら、あとふたりの住人のほうがすごいわよ。イタリア人とオーストリア人のカップルで、あっちの洞窟にいるの。もう4ヶ月も住んでるのよ」

なんじゃそりゃ。サン・ペドロには洞窟まであるのか。それに4ヶ月も洞窟に住んでいるって、岩窟王かよ。たしかにすごい。そのカップルには翌朝会って話をした。ふたりとも、この世の不幸はすべてアメリカの責任だという過激な反米思想の持ち主で、マクドナルドやケンタッキーなんか死んでも食べないし、ハリウッド映画なんか死んでも見ないと息巻いていた。

「竹田の子守唄」の伴奏を終えたホセ・フェルナンデスは胸ポケットからおもむろにハシシュの小さな塊を取り出した。マルボロを1本、指でほぐして葉の上に塊を載せ、ライターで炙る。柔らかくしたら、タバコの葉とよく混ぜ合わせ、用意しておいたペーパーにうまくくるんで火をつけた。まわし飲みである。廃村だけあって、アルコールが入手不可なのが玉にキズだった。

サラーは僕に、

「1泊なんていわないで、もっともっとサン・ペドロにいなさいよ。絶対楽しいから。どうしても明日行ってしまうんだったら、せめてランチまでいなさいね。明日のランチはここの住人みんなで昆布ダシのラーメンを食べるんだから」

なに、昆布ダシのラーメン!それは喰いたい

僕は快諾した。明日、みんなでランチを食べてから出発すると。

みんながそれぞれねぐらにしている廃屋へ引き上げていったあと、鼻の曲がったエミリオに硬いパンを恵んでもらい、僕がリュックサックに入れて背負っていた軟らかいプロセスチーズと名前のわからない魚の缶詰でささやかな夕食をとった。水は湧き水をくんできた。

冗談のつもりで、食べ終わった魚の缶詰に残った油にティッシュペーパーで作ったコヨリを浸してライターで火をつけると、なんと3時間も燃えつづけた。おかげで睡魔に襲われるまでの3時間、寄せては返す単調な潮騒をBGMに心ゆくまで『東海道中膝栗毛』を読み耽った。

僕を含めてサン・ペドロの全住民7人が顔をそろえた翌日のランチは、ブツ切りの昆布と乾めん、それに菜っ葉が主役のごった煮スープで、いったいどこの国の味なんだか見当もつかないシロモノだった。しかしガヤガヤいいながら7人がてんでにひとつの大鍋にフォークを突っ込んで、パスタよろしく乾めんをクルクル巻きつけて口に運ぶのは楽しいひとときだった。

さて腹ごしらえもしたし、出発だ。僕はフリオとサラーが教えてくれた北の方角の道なき化石の山の斜面を1時間半かけて無理やりよじ登り、とうとうてっぺんにたどり着いた。しかしそこは僕が想像していた山のてっぺんではなく、広大な草原がどこまでもつづく高台の絶壁だったのだ。振り返って眼下に小さく見えるサン・ペドロに向かい、僕は手を振りながら大声で何度も叫ぶ。

「アディオース!ムーチャス・グラシアス!アディオース、サン・ペドロ!」

さよなら。ほんとありがとう。さよなら、サン・ペドロ。

高台の北東はるか彼方に集落が見える。道もない大草原の中を僕はその集落めざして歩き出した。

4千円もしたドイツ製のハーモニカ。サン・ペドロではこれで「竹田の子守唄」を吹いた。

ところで僕は旅行中、スナップ写真を撮りつづけていた。デジカメなどは後世の話で、当時はネガフィルムで撮影していた。一度出国したら1年は帰国しないつもりだったので、現地で写真を現像してしまうと荷物が増えることになるため、撮り終えたフィルムはすべて日本に郵送し、日本で現像していた。

それらの膨大なフィルムはすべて無事に日本に到着した、このスペインのサン・ペドロ前後のフィルムを除いては

だから僕はサン・ペドロでの一泊を収めた写真を一枚も持っていない。このメルマガでは毎回、できるだけ話の内容にふさわしい写真を探し出して添えているが、そんな事情から今回はそれが不可能だということを読者にはおわかりいただきたい。

そういったことも含め、あの化石の廃村サン・ペドロでの一泊は僕の記憶と日記帳に痕跡が残るだけで、もしかすると現実ではなく夢幻だったようにもおもえるのだ。たとえいつの日かふたたびサン・ペドロを訪れる機会があったとしても、あの当時住んでいた個性的なサラーや笛吹きのホセ・フェルナンデス、鼻の曲がったエミリオたちがいるはずがない。あくまで全員が仮住まいだったのだから。

僕にとってのスペインは、あの化石の廃村サン・ペドロに尽きるのである。

『あるきすと平田のそれでも終わらない徒歩旅行~地球歩きっぱなし20年~』第8号より一部抜粋

著者/平田裕
富山県生まれ。横浜市立大学卒後、中国専門商社マン、週刊誌記者を経て、ユーラシア大陸を徒歩で旅しようと、1991年ポルトガルのロカ岬を出発、現在一時帰国中。メルマガでは道中でのあり得ないような体験談、近況を綴ったコラムで毎回読者の爆笑を誘っている。
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