部屋に戻ると、サラーがまた解説してくれる。
「ここにいる6人はみんな、オリエンタルなものが好きなの。『ZEN(禅)』、『BONSAI(盆栽)』、『KONBU(昆布)』、『KARATE空手)』、『TAO(道)』、『TAICHI(太極拳)』、『YOGA(ヨガ)』。わたしはダンサーなんだけど、呼吸法や精神統一に禅やヨガ、空手、太極拳を取り入れているし、昆布でとるダシは自然食でからだにいい。ホント、東洋文化はすばらしいわ」
そういうと彼女はその場でいきなり三点倒立した状態で腹式呼吸を始めた。
それにしても昆布ダシまで出るとは、かなり重度のオリエンタルフリークである。
ところで鼻の曲がっていないほうの男、ホセ・フェルナンデスが横笛を奏で始めた。哀愁を帯びたメロディーで、南米インディオの古い曲だそうだ。うまいもんだ。
お返しにハーモニカで稚拙な「竹田の子守唄」を吹いたらひどく喜んでくれて、すぐに笛で伴奏してくれた。サラーも鼻歌でハモる。
本職がペンキ職人のホセ・フェルナンデスは、趣味で竹笛を作っていた。すでに12日間、鼻の曲がった笛作りの弟子エミリオとサン・ペドロに住んで笛を作りつづけているという。
また、サラーとフリオはカップルで、バルセロナからバカンスで来ていた。デビッド・ボウイの大ファンだという彼女はバルセロナ公演のチケットを買うために、売り場前になんと12日間も並んだそうだ。昆布ダシといい、チケットとるのに12日間並ぶといい、かなり風変わりなヤツだ。すごいねえというとサラーは、
「あら、あとふたりの住人のほうがすごいわよ。イタリア人とオーストリア人のカップルで、あっちの洞窟にいるの。もう4ヶ月も住んでるのよ」
なんじゃそりゃ。サン・ペドロには洞窟まであるのか。それに4ヶ月も洞窟に住んでいるって、岩窟王かよ。たしかにすごい。そのカップルには翌朝会って話をした。ふたりとも、この世の不幸はすべてアメリカの責任だという過激な反米思想の持ち主で、マクドナルドやケンタッキーなんか死んでも食べないし、ハリウッド映画なんか死んでも見ないと息巻いていた。
「竹田の子守唄」の伴奏を終えたホセ・フェルナンデスは胸ポケットからおもむろにハシシュの小さな塊を取り出した。マルボロを1本、指でほぐして葉の上に塊を載せ、ライターで炙る。柔らかくしたら、タバコの葉とよく混ぜ合わせ、用意しておいたペーパーにうまくくるんで火をつけた。まわし飲みである。廃村だけあって、アルコールが入手不可なのが玉にキズだった。
サラーは僕に、
「1泊なんていわないで、もっともっとサン・ペドロにいなさいよ。絶対楽しいから。どうしても明日行ってしまうんだったら、せめてランチまでいなさいね。明日のランチはここの住人みんなで昆布ダシのラーメンを食べるんだから」
なに、昆布ダシのラーメン!それは喰いたい。
僕は快諾した。明日、みんなでランチを食べてから出発すると。
みんながそれぞれねぐらにしている廃屋へ引き上げていったあと、鼻の曲がったエミリオに硬いパンを恵んでもらい、僕がリュックサックに入れて背負っていた軟らかいプロセスチーズと名前のわからない魚の缶詰でささやかな夕食をとった。水は湧き水をくんできた。
冗談のつもりで、食べ終わった魚の缶詰に残った油にティッシュペーパーで作ったコヨリを浸してライターで火をつけると、なんと3時間も燃えつづけた。おかげで睡魔に襲われるまでの3時間、寄せては返す単調な潮騒をBGMに心ゆくまで『東海道中膝栗毛』を読み耽った。
僕を含めてサン・ペドロの全住民7人が顔をそろえた翌日のランチは、ブツ切りの昆布と乾めん、それに菜っ葉が主役のごった煮スープで、いったいどこの国の味なんだか見当もつかないシロモノだった。しかしガヤガヤいいながら7人がてんでにひとつの大鍋にフォークを突っ込んで、パスタよろしく乾めんをクルクル巻きつけて口に運ぶのは楽しいひとときだった。
さて腹ごしらえもしたし、出発だ。僕はフリオとサラーが教えてくれた北の方角の道なき化石の山の斜面を1時間半かけて無理やりよじ登り、とうとうてっぺんにたどり着いた。しかしそこは僕が想像していた山のてっぺんではなく、広大な草原がどこまでもつづく高台の絶壁だったのだ。振り返って眼下に小さく見えるサン・ペドロに向かい、僕は手を振りながら大声で何度も叫ぶ。
「アディオース!ムーチャス・グラシアス!アディオース、サン・ペドロ!」
さよなら。ほんとありがとう。さよなら、サン・ペドロ。
高台の北東はるか彼方に集落が見える。道もない大草原の中を僕はその集落めざして歩き出した。
ところで僕は旅行中、スナップ写真を撮りつづけていた。デジカメなどは後世の話で、当時はネガフィルムで撮影していた。一度出国したら1年は帰国しないつもりだったので、現地で写真を現像してしまうと荷物が増えることになるため、撮り終えたフィルムはすべて日本に郵送し、日本で現像していた。
それらの膨大なフィルムはすべて無事に日本に到着した、このスペインのサン・ペドロ前後のフィルムを除いては。
だから僕はサン・ペドロでの一泊を収めた写真を一枚も持っていない。このメルマガでは毎回、できるだけ話の内容にふさわしい写真を探し出して添えているが、そんな事情から今回はそれが不可能だということを読者にはおわかりいただきたい。
そういったことも含め、あの化石の廃村サン・ペドロでの一泊は僕の記憶と日記帳に痕跡が残るだけで、もしかすると現実ではなく夢幻だったようにもおもえるのだ。たとえいつの日かふたたびサン・ペドロを訪れる機会があったとしても、あの当時住んでいた個性的なサラーや笛吹きのホセ・フェルナンデス、鼻の曲がったエミリオたちがいるはずがない。あくまで全員が仮住まいだったのだから。
僕にとってのスペインは、あの化石の廃村サン・ペドロに尽きるのである。
『あるきすと平田のそれでも終わらない徒歩旅行~地球歩きっぱなし20年~』第8号より一部抜粋
著者/平田裕
富山県生まれ。横浜市立大学卒後、中国専門商社マン、週刊誌記者を経て、ユーラシア大陸を徒歩で旅しようと、1991年ポルトガルのロカ岬を出発、現在一時帰国中。メルマガでは道中でのあり得ないような体験談、近況を綴ったコラムで毎回読者の爆笑を誘っている。
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