【貧乏旅行記】バックパッカーがスペインの廃村で過ごした不思議な夜

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前回、カンボジアの警察署長の男気に思わず涙をこぼしたあるきすと・平田さん。今回はスペインのとある施設で期せずして受けた施しと、廃村での奇妙なナチュラリストとの出会いを綴ります。撮ったはずの写真が一枚も残っていないという、不思議な一夜の様子をどうぞ。

あるきすと平田とは……

ユーラシア大陸を徒歩で旅しようと、1991年ポルトガルのロカ岬を出発。おもに海沿いの国道を歩き、路銀が尽きると帰国してひと稼ぎし、また現地へ戻る生活を約20年間つづけている、その方面では非常に有名な人だったりします。普通の人は何のために……と思うかもしれませんが、そのツッコミはナシの方向で……。

第8回 1991/10/3、サン・ペドロ。あんな時空間、ちょっとないinスペイン

激しくギターをかき鳴らし、色鮮やかでウミウシみたいなドレスで踊り狂うフラメンコ。簡素な甲冑を彷彿させる衣装をまとった細身のマタドールと巨大な猛牛のタイマン勝負、闘牛。参加者4万人がトマトまみれで真っ赤に染まる奇祭トマティーナ。牛の軍団に追っかけられてけが人死人あたりまえのデンジャラス祭り、サン・フェルミン祭。ほんと、情熱の国だねえ、スペインは。

今から20数年前の1991年、そんなスペインを僕は8月25日に西隣のポルトガルから入って11月23日に北東隣のフランスに抜けるまでの約3ヶ月間、ほぼ地中海沿いに2,159キロ徒歩旅行した。

入国してすぐ、道路沿いの家のテラスから声がかかる。

「オラッ、アミーゴ(やあ、友だち)!」

振り向くと、小麦色の肌を、ほらほら見せちゃうよ~っと露出度全開にしたキュートな女の子たちが、こぼれるような笑顔で僕に手を振っていた。当時、僕は29歳。そんな経験、日本で皆無。なんかいいことありそなスペイン。よし、がんばって歩くぞ。そんな気分にさせてくれるお出迎えだった。

スペインではさらに、若い女性が運転する車がしばしば停まってくれた。僕をヒッチハイカーと間違えて、乗っていけと誘ってくれるのだ。

ああ、今からおもえばわたしはピュア過ぎた。歩き出したポルトガル以来、ヒッチハイクどころか街なかを走る路線バスやデパートのエレベーターにエスカレーターなど、ありとあらゆる乗り物を拒否する徒歩原理主義者だった僕は、そんな魅力的なお誘いさえ全部断って歩きとおしたのだった。もしあのコの車に乗っていたら、ワクワクするアバンチュールに発展していたかも。もしあのコの車に乗っていたら、今ごろ僕にスペイン人とのハーフの娘がいたかも。もしあのコの車に乗っていたら、アホらしいユーラシア横断徒歩旅行なんてとっととやめてそのまま移住、フラメンコギタリストとして一躍勇名を馳せていたかも。もしあの子の車に乗っていたら……。

妄想はとめどなく暴走する。今になって思い起こすと、当時の自分の融通のきかなさにため息が出てしまう。バカバカバカ!

海沿いの大都市カディスめざして歩くわたくし。道路は立派だが歩道がほぼないことにご注意を。

海沿いの大都市カディスめざして歩くわたくし。道路は立派だが歩道がほぼないことにご注意を。

ほぼ東西に走るピレネー山脈によって隣国フランスと隔てられたスペインは今でこそカソリックの国だが、8世紀初頭から15世紀末までの800年もの長きにわたり、北アフリカから侵入してきたイスラム勢力によって統治されていた国だ。とくに南部アンダルシア地方は彼らの牙城で、21世紀になった今でもグラナダのアルハンブラ宮殿や旧街区アルバイシン、コルドバのモスク転じて教会となったメスキータなど、往時の面影を色濃く残している場所も多い。

僕も徒歩でグラナダにたどり着き、夜遅く缶ビール片手に訪れたアルハンブラ宮殿の壁の闇と、上空にぽっかり浮かんだお月さまの淡い光のコントラストにうっとりしたものだ。

偶然その場で知り合った若い日本人女性がつぶやいた。

フェリーニの映画のワンシーンみたい」

フェリーニの映画を見たことなかった僕だが、ロマンチックなシチュエーションと耳ざわりのよい彼女のつぶやきに、その夜、ふたりのあいだになにかが始まる予感を感じていた。

>>次ページ 目指した宿がまさかの……

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