それを見た瞬間、笑っちゃいけない、笑っちゃいけない、しかし奔流のごとくゲラゲラ笑いが腹の底から突き上げてきて抑えるのに必死だった。どうにか鼻の穴をひくつかせて爆笑をこらえ、再度タトゥーを見る。またまた爆笑の波動砲が胃袋からのど元まで湧き上がってきたのをかろうじてこらえた。
だって、彼の二の腕には日本語でこう彫られていたんだもの。
友だち
いまだにこんなに迫力に欠けるタトゥーを見たことがない。なんかほかに彫りようがなかったのか。
彼はカタコトの英語で懸命に左腕の「友だち」について語った。なにかの本の掲載写真で偶然この文字に目が留まり、美しいと感じた。「友だち」の意味もわからないのに地元の彫師に本を見せて彫ってもらったそうだ。「だ」の濁点がつながって一本線になっていたのはご愛嬌か。
意味を教えてくれというのでアミーゴ、アミーガ(友人)だと答えると、彼はうれしそうに微笑んだ。いい言葉だとおもったのだろう。
それにしてもこれがまだ「友だち」でよかった。もし彼が美しいと感じて彫ったのが「とろろ芋」とか「おじゃまんが山田くん」とか「野田どじょう内閣」とか「脱糞」だったらと想像すると、冷や汗が出る。
しばらく彼らと会話にならぬ会話をつづけているうち、さすがに眠くなった。おやすみをいって、隣室の自分のビーチチェアーに引き上げた。
翌朝8時半前、チリンチリンという鈴の音で起こされると、全員が2階の食堂へとせき立てられた。食堂には木製のテーブルが4卓あるだけで椅子はない。テーブル上には、プラスチックの白いコップに入った温かいカフェオレと10枚ほどのビスケットがセットになってそこここに置かれている。各自その前に立って初老の男の説教に耳を傾けたあと、胸元で十字を切って「アーメン」を唱え、優しく小鳥でも抱くように温かいカフェオレのコップを両手で抱え込んで暖をとりながら、ズズッ、ズズッと音を立ててすすっている。
僕も神妙な気分でそれらをいただいた。
軽い朝食を終えるとすぐ、僕以外の全員は口ひげの男に先導されて外出していった。
ロビーの古着の山といい、酔っぱらいのおっさんといい、ビーチチェアーといい、朝食つきのドミトリー代が無料といい、前夜から薄々もしかしたらと感じていたことが、荷物をまとめて玄関を出て、ここの看板にもう一度目をやって確信した。前夜は暗くてはっきり読めなかった看板にはこう書かれていた。
「レシデンシア・ヘスス・アバンドナード」(見捨てられたイエスの館)
やはりここはキリスト教の教会か慈善団体が運営するホームレスの収容施設だったのだ。知らなかったとはいえ、僕はひと晩ホームレスの収容施設に厄介になってしまったのだった。アーメン。
その3日後の91年10月3日、さらに強烈な体験をした。場所の名はサン・ペドロ。いまグーグルマップで確認するとちゃんと載っている。当時愛用していたミシュランの道路地図にも載っていた。
しかしなぜこんな廃村の名を記載しているのだろうか。怪訝な話だ。
ミシュランの地図には、西隣のラス・ネグラスからサン・ペドロに向けて車の通れる道路が記載されていたから歩いていったものの、実際には海にせり出した山肌を強引に削って通した獣道レベルの細道で、人がすれ違うのがやっとの未舗装路だった。路面は登山道みたいに石ころがゴロゴロしているうえに柵もなく、足を踏みはずせば十数メートル下の波打ちぎわまで山肌を転がり落ちてしまう。当然、車なんか通れるはずがない。
こんな細道の向こうに本当に地図に記載されたサン・ペドロなる町があるのかどうか不思議でならなかったが、とにかく歩いた。で、眼前に現れたのは、ぐるりと山に囲まれ、開けた前面が地中海という猫の額ほどの平地だった。
三方を囲む山々は荒涼として、今にもガラガラゴロゴロと崩れ落ちそうな脆さがあった。まるで墨汁に朱を混ぜて描きなぐった巨大な水墨画の屏風が濃い青空めがけて屹立しているかのようだ。また南面する海はこれまで見たことのない深緑色を呈していた。白い砂浜に立って360度見回すと、パノラマの雄大さにオーッと感動の雄叫びを上げたくらいだった。
しかし猫の額ほどの平地に人工物はというと、一部崩れた石造りの古い要塞と壁だけになった数軒のレンガ造りの廃屋、それに湧き水くみ場1ヶ所だけだ。人影はない。
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