そうか、今夜は個室がすべて埋まっているので、大部屋で我慢しろということか。時刻は9時半をまわっている。戸惑いはあったが、今から外に出て宿を探しまわる気力も体力も残っていない。個室でなく大部屋だろうが雨露をしのげる屋根と壁があり、ベッドでなくビーチチェアーだろうが床にダイレクトに身を横たえなくてもいい環境が目の前にある。
「グラシアス。ムーチャス・グラシアス」
僕は彼にお礼を述べ、そして尋ねた、宿代はいくらですかと。
「クアント・クエスタ?」
「デ・ナーダ」
男はにこやかに答えると、大部屋から足早に去ってしまった。
デ・ナーダ。日本語の、どういたしまして。宿代がいくらかと尋ねて、どういたしましてという返答をどう理解すればいいのだろう。僕は不安になってポケットサイズの英語スペイン語辞典を取り出した。もしかすると「デ・ナーダ」には僕の知らない意味があるのかも知れない。
すると、「free」という英単語が載っていた。どうもこの場合、「タダ、無料」ということらしい。
どういうことだ?なんで宿代がタダなんだ。タダより怖いものはないというではないか。案内してきた男は好々爺に見えたが本当は悪党の親分で、あとから宿代を吹っかけてくるんじゃないかと心配になった。そして隣のビーチチェアーに横になって僕のしぐさを眺めていた50年配の男に宿代を確認すると、やはり返事は「デ・ナーダ」だった。
釈然としないがここはタダで泊まれる宿らしい。無料宿泊施設。スペインにはそんなありがたいところがあったとは知らなかった。大部屋を我慢すればタダで泊まれるのだ。旅費に窮してきたらまた利用しよう。しかしやはり館内の様子はなんだかおかしい。
シャワーを浴び、ビーチチェアーに座りながら遅い夕食をとった。隣のレジャー室からはますます声高になった酔っぱらいのたわごとが響いてくるので、目をつむっても眠れない。暇つぶしにレジャー室へ行ってみると、酒を飲んでいたひとりが僕にカタコトの英語で話しかけてきた。
「チャイニーズ?」
そのころスペインではブルース・リーとジャッキー・チェンの映画が評判で、歩いているとよく子どもから「チャンチュンチョン」とか「チンチェンチャン」とかエセ中国語で声をかけられたものだ。スペイン人にとって中国語のイメージはそんなものらしい。
日本人観光旅行者が多くなったといっても、ちょっとした規模の町には中国人経営の中華料理店があったから、多くのスペイン人にとって細い目の東洋人といえば中国人だったのだろう。
「ノー。ジャパニーズ」
そう答えると、アラフォーの彼は目をまん丸く見開いたと同時に腕まくりした。なんだなんだ、日本人だとわかったらいきなりケンカを吹っかけてきやがるとは、やはりこの宿泊所はタダモノでない。
ひるんだものの、彼はケンカを吹っかけたのではなく、単に左の袖をまくって二の腕に彫られたタトゥーを僕に見せたかっただけだった。
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