日本の武士道に世界が感動。大戦中、敵兵を命がけで救った日本海軍

 

「オラが艦長は」

工藤が駆逐艦「雷」の艦長として着任したのは、昭和15(1940)年11月1日だった。身長185センチ、体重95キロと大きな体に、丸眼鏡をかけた柔和で愛嬌のある細い目をしていた。「工藤大仏」というあだ名を持つ温厚な艦長に、乗組員たちはたちまち魅了されていった。

着任の訓示も、「本日より、本官は私的制裁を禁止する。とくに鉄拳制裁は厳禁する」というものだった。士官たちには「兵の失敗はやる気があってのことであれば、決して叱るな」と口癖のように命じた。見張りが遠方の流木を敵潜水艦の潜望鏡と間違えて報告しても、見張りを呼んで「その注意力は立派だ」と誉めた。

酒豪で何かにつけて宴会を催し、士官と兵の区別なく酒を酌み交わす。兵員の食事によく出るサンマやイワシが好きで、士官室でのエビや肉の皿を兵員食堂まで持って行って「誰か交換せんか」と言ったりもした。

2ヶ月もすると、「雷」の乗組員たちは「オラが艦長は」と自慢するようになり、「この艦長のためなら、いつ死んでも悔いはない」とまで公言するようになった。艦内の士気は日に日に高まり、それとともに乗組員の技量・練度も向上していった。

海軍兵学校・鈴木貫太郎校長の教育

工藤艦長は、海軍兵学校51期だったが、入学時に校長をしていた鈴木貫太郎中将の影響を強く受けた。鈴木はその後、連合艦隊司令長官を務めた後、昭和4年から8年間も侍従長として昭和天皇にお仕えした。その御親任の厚さから、終戦時の内閣総理大臣に任命されて、我が国を滅亡の淵から救う役割を果たす。

工藤ら51期が入学した時に校長に着任した鈴木は、従来の教育方針を以下のように大転換した。

  • 鉄拳制裁の禁止
  • 歴史および哲学教育強化
  • 試験成績公表禁止(出世競争意識の防止)

日本古来の武士道には鉄拳制裁はない、というのが、その禁止の理由だった。工藤ら51期生は、この教えを忠実に守り、最上級生になっても、下級生を決してどなりつけず、自分の行動で無言のうちに指導していた。

歴史および哲学教育の強化の一貫としては、鈴木自身が明治天皇御製についての訓話を行い、

四方の海皆はらからと思ふよになど波風に立ちさわぐらん

の御製から、明治天皇の「四海同胞」の精神を称えている。工藤の敵兵救助も、この精神の表れであろう。

日本海軍の武士道

大東亜戦争開戦の2日後、昭和16(1941)年12月10日、日本海軍航空部隊は、英国東洋艦隊を攻撃し、最新鋭の不沈艦「プリンス・オブ・ウェールズ」と戦艦「レパルス」を撃沈した。

駆逐艦「エクスプレス」は、海上に脱出した数百人の乗組員たちの救助を始めたが、日本の航空隊は一切妨害せず、それどころか、手を振ったり、親指をたてて、しっかりたのむぞ、という仕草を送った。さらに救助活動後に、この駆逐艦がシンガポールに帰投するさいにも、日本機は上空から視認していたが、一切、攻撃を差し控えていた

こうした日本海軍の武士道は、英国海軍の将兵を感動させた。工藤の敵兵救助とは、こうした武士道の表れであり、決して、例外的な行為だったわけではない。

昭和17(1942)年2月15日、シンガポールが陥落すると、英国重巡洋艦「エクゼター」と駆逐艦「エンカウンター」は、ジャワ島スラバヤ港に逃れ、ここで、アメリカ、オランダ、オーストラリアの艦船と合同して、巡洋艦5隻、駆逐艦9隻からなる連合部隊を結成した。

この連合部隊に、日本海軍の重巡「那智」「羽黒」以下、軽巡2隻、駆逐艦14隻の東部ジャワ攻略部隊が決戦を挑んだ。日本海海戦以来、37年ぶりの艦隊決戦である。

2月27日午後5時、海戦が始まった。当初、「雷」は開戦以来、敵潜水艦2隻、哨戒艇1隻撃沈という戦闘力の高さを買われて、艦隊後方で指揮をとる主隊の護衛任務についていた。そこに「敵巡洋艦ヨリナル有力部隊発見、我交戦中」との信号を受けて、主力は戦場に向かった。しかし、到着した時には、敵艦隊はスラバヤに逃げ込んで、肩すかしを食らった。

2月28日、「エクゼター」は被弾箇所の応急修理を終え、「エンカウンター」と米駆逐艦「ポープ」を護衛につけて、インド洋のコロンボへと逃亡を図った。しかし、3月1日に「雷」の僚艦「電(いなづま)」を含む日本の駆逐艦隊に取り囲まれ、攻撃を受けた。

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