ミュージシャン、作曲家、編曲家、ピアニスト、とさまざまな肩書を持つ音楽家、坂本龍一さん。1990年に活動の拠点をニューヨークに移して以来、日米で活躍している。この度、音楽を手掛けた、日本の映画界の巨匠、山田洋次監督と、女優、吉永小百合さんがタッグを組んだ作品「母と暮せば」が昨月、映画祭「第10回JAPAN CUTS !~ジャパン・カッツ!」(ジャパン・ソサエティー開催)で上映された。病より復帰明け、最初の仕事、米国での活動などお話を伺った。 (聞き手・高橋克明)
音楽手掛けた「母と暮せば」がNY上映
久しぶりに日本映画の音楽を担当されました。制作に至るまでの経緯を教えてください。
坂本 2年前に山田(洋次)監督と吉永小百合さんが、二人で訪ねてきてくださって。で、その場で単刀直入に、次回作の音楽をやってくれないか、と。まぁ、あのお二人に頼まれてイヤとは言えないというか。(笑)
あの二人に「NO」って言える日本人はいないですよね。(笑)
坂本 もちろん、それは冗談で(笑)。ぜひ、やらせていただきたい、と。吉永さんとは一緒にお仕事をさせていただいてもいますし、山田監督は日本を代表する映画監督ですから。「寅さんシリーズ」や「たそがれ清兵衛」など、いろいろ観ていましたが、僕が今までやってきたような映画(音楽)とは随分、傾向が違いますし、むしろ心配だったくらいなんですけれど。
監督の作品はアットホームでウオーミングで…。
坂本 そう。誰が観ても楽しめるというかね。子供からおじいさんおばあさんまで、幅広い世代に愛される、まさに全国区な国民的映画を作られてきた方だから。僕のはもう「せいぜい渋谷区」くらいの作品ですから…。(笑)
「世界のサカモト」です。(笑)
坂本 いやいや、とんでもない。アンダーグラウンドの世界(観)でやってきたわけですから、とてもじゃないけど、僕のようなものでいいのかな、と。ですから、聞きましたよ「僕なんかでいいんですか」って(笑)。最後まで山田監督の映画に合うような音楽を自分が作れるかどうかは心配でした。
心掛けた点はなんでしょう。
坂本 日本全国の人に愛される作品ですから、分かりにくい曲を作るわけにはいかないです、やはり。誰が聞いてもスーッと入っていけるような…。逆にそれは僕にとっては一番難しい(笑)。そういうのは作ったことないんですよ、今まで。これまでは他にないものを作ろうと一生懸命努力してきたわけです。普通じゃない方向、普通じゃない方向、に気付いたら行ってしまう(自分がいる)わけですよね。なので「万人がすぐ理解できるものを」と思ったら、それってどういうものだろう、と逆に悩んでしまいましたね。
なるほど。
坂本 ですから、自分にとっては、割と「初挑戦」という感じでした…。うん。この歳にして。
出来上がった作品をご覧になって、ご自身の音楽を…。
坂本 (さえぎって)いやぁーー…。あのね、これはいつもなんだけど、やっぱり作ってる方からすると「あぁすれば良かった」「こうすれば良かった」って出てきます。それは、いつも、いつまでも、残る。ただ…監督が「イイ」と言えば、いいので(笑)。やっぱり映画は監督のものですから。それに、その疑問を残したまま終わってしまっても、時間が経てば、なじんでくる場合もあるんですよ。
あらためて観てみると。
坂本 そう。何年か経って。「あぁ、やっぱり監督の言う通りで良かったんだなぁ」って。そうやって納得することは今でもあります。それは…10年後や20年後の場合もあります。見直してみると、監督が言ってたことの方が正しかったんだと思うことが、ままあります。
日本映画の音楽を担当されることも、久しぶりでした。
坂本 実は僕、日本映画、特に昔の作品も含めて日本映画の歴史そのものが好きなんです。小津安二郎も、黒澤明も非常にリスペクトしています。かつての日本映画の黄金期、ゴールデンエラというのかな。とても好きだし、今でもよく観ます。山田監督は、そういう時代の、たぶん最後の監督ですから。良き時代の日本映画の匂いがするっていうのかな。大リスペクトしてるわけなんですね、僕としては。ですから、お声掛けいただいた時はこれ以上ないほど光栄でした。
なるほど。引き受けられた理由の一つには、作品自体が「脱・原爆」をテーマにしているから、と想像していたのですが。
坂本 もちろん、それもあります。(作品が)長崎の原爆で犠牲になった家族の話ですから。核兵器や戦争がイヤだという気持ちは強いですし……。戦争って、やったりやられたり、まぁ「ケンカ」ですよね。両方悪いんです。「原爆落としたおまえがヒドい」「いや、その前におまえも攻めたじゃないか」。そうやって言い争っても、白黒がつかない問題ですよ。だから戦争って絶対、やってはいけないことなんです。
観客のニューヨーカーにもそのあたりを感じてほしい、と。
坂本 ただ、僕は山田監督が「原爆を落とされた日本は被害者だ」とか「広島・長崎ではこんなに酷い悲劇が起こったんだ」と言いたくてこの作品を作ったのではないと思ってるんですね。そうじゃなくて、これは長崎の話だけれども、こうやって話してる今でも、シリアでも、ニースでも、どこでも起こっている問題、毎日起こってる悲劇なんじゃないかと思っています。
はい。
坂本 暴力や闘いでは何も解決しない、そういうことを監督は言いたかったんだと思うし、観ていただく人にはそのあたりを感じてほしいですね。そう理解してくれたら、うれしいな、と。
今回の作品は坂本さんご自身、病から復帰最初のお仕事でした。しかも同時期に、あのアレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督からも依頼されています。さすがの坂本さんでも1発目で、その二つはさすがにプレッシャーがあったのではないかと。
坂本 そうですね。30代の一番元気な時ですら二つの映画音楽をほぼ同時期にやったことはなかったので。確かに肉体的にも精神的にもそうとうつらかったです。体力的にも今が仮に100だとしたら、当時は60ぐらいだったかなぁ…。
その上で、ゴールデングローブ音楽賞にノミネートされました。
坂本 いやいや。依頼の連絡があった時イニャリトゥに「まだ療養中なんだけど」って言ったんですけど「そういう時はね、仕事バンバンやったほうがいいんだよ!」って言われちゃって(笑)。そんなもんかなぁーって(苦笑)。
病から復帰後、お仕事に対する心境の変化はありましたか。
坂本 ……うーん、あんまりチャラチャラしてられないなっていう(笑)。いや、僕はね、あっちこっちに興味がたくさん散らばってしまう傾向がある人間でして。いろんなことやってしまうのね。興味・好奇心が旺盛だっていうことは良いことだとは思いますけれど。でも…自分の仕事が何かって言われたら、やっぱり音楽ですから。これからは焦点を絞って一つのことを、深くやっていきたいと。そういう意味では、ちょっと変わったのかもしれません。
世界的な賞も名声も手に入れて、今後の坂本さんのゴールはどこになるのでしょう。
坂本 まぁ、ありがたいことに賞はいろいろ頂きましたけど、そもそもそれはゴールではないので。それを目指してやったことは一度もないんです。賞は…なんていうのかな、突然のご褒美みたいなもんですね。だいたい、ああいうものは、あとから遅れてやってきますし。その仕事は終わって、次の仕事に取りかかって、何カ月も経ってから頂くので。「あぁ、そんなことやったなぁ」って感じですね。(笑)
忘れたころに。(笑)
坂本 ホント、そうです(笑)。それに忙しいので、日々、目の前のことに一生懸命やっていますしね。映画音楽でしたら、監督と毎日やりあって、どうやったら監督を満足させるか、「うん」と言わせるか。レコーディングだったら、どうやって演奏者から最高の表現を引き出せるか、良い音をとれるか、そういうことに集中してるので、賞のことは全く考えてないですね。…っていうとちょっとカッコよすぎるかもしれませんが。(笑)
いえ、でもカッコいいです。
坂本 でも実際のところ、そうなんです。だから、ゴールは……自分で納得できる、自分で「いいな」と思える音楽が作れれば。それだけですね。
ニューヨークを拠点に音楽活動されてらっしゃいますが、東京とはやはり違いますでしょうか。
坂本 26年前になるかな、ニューヨークに来たのは。「機能的」だから、って理由が一番大きかったんです。スタジオ、機材、ミュージシャン、と(制作するにあたって)世界イチ便利なんですよ。ですから、別に「刺激を求めてきた!」とか、そういうわけではなくて。
そうなんですね。
坂本 僕が来たのは、90年ですから。一番刺激的で、熟れておいしかった80年代のニューヨークはもう終わってましたし、一番いい時期のニューヨークが終わってから来たので、みんなから「なんで来たの?」って言われたくらい(笑)。それは、もう、仕事のためですよ。日本はやっぱり(世界から)遠いんですね。ヨーロッパとアメリカ(西海岸)のちょうど真ん中くらいっていうと、やっぱりニューヨークかなって。世界の真ん中だから、どこにでも一番行きやすい。ロマンチックな理由で来てるわけじゃないんです。(笑)
世界を舞台にしている方のリアルなセリフの気がします。では、好きか嫌いかというとどちらですか。
坂本 好きは好きですよ、もちろん。住めば都って言葉もあるしね。でもね…世界のどこにも100%良いところなんてないですよ。好きなところと、嫌いなところが絶対にありますよね。ニューヨークにも東京にも、こういうところは好きだけど、こういうところは嫌い、その両方がありますよね。
最後に在米の日本人にメッセージをお願いします。
坂本 うーーーーんん…なんだろ…。アメリカのいいところはね、「自分らしく」ないと評価されないところ。逆に日本は「自分らしく」いたら、社会に抑えられるというか…学校でも会社でも何か目立っちゃったら、叩かれるというか…。そのあたりは真逆かなって思います。アメリカは、何をしても、みんな放っておきますよね(笑)。基本的には誰もあなたに関心がない。
はい。
坂本 「何かをする」まではね。で、何か面白いことをしたり、発見したり、人のできないことをすると、途端に、みんなワッと集まりますね。
何かをしちゃダメな日本と、何かをしなきゃいけないアメリカというか。
坂本 そのへんは、本当に真逆で面白いなぁって思います。ですから、ここにいる限り、自分しかできない、自分だけの、他にはない、かけがえのない一人になってほしいなって思います。
坂本龍一(さかもと りゅういち) 職業:ミュージシャン・作曲家・編曲家・ピアニスト
1952年東京都生まれ。78年にソロ・デビュー、同年YMO結成に参加、散開後、88年には映画『ラストエンペラー』で米アカデミー賞作曲賞、その他を受賞。常に革新的なサウンドを追求する姿勢は世界的評価を得ている。2006年には新たな音楽コミュニティー「commmons」を設立。07年一般社団法人「more trees」を設立し森林保全と植林活動を行なうなど90年代後半より環境問題などへ積極的に関わる。東日本大震災後、さまざまな被災者支援プロジェクトに関わるとともに、脱原発・非核を訴える活動も行う。また、音楽とアートを横断する柔軟な視点と、歴史・思想・哲学まで包含する幅広い知識に対してアートの分野からも信頼が厚い。1990年より米国、ニューヨーク州在住。
〈作品紹介〉
映画『母と暮せば』
故・井上ひさしが『父と暮せば』の対となる作品として構想していた作品。戦後、助産婦として長崎で暮らす伸子(吉永小百合)の元に、原爆で亡くなったはずの息子の浩二(二宮和也)が現れるというファンタジー。監督は山田洋次で、坂本龍一さんが音楽を担当している。(公開:2015年12月)
〈CD紹介〉
オリジナル・サウンドトラック、9月23日に米国でリリース
Milan Recordsより『母と暮せば』(英題:Nagasaki: Memories of My Son)のサウンドトラックが米国でリリースされる。「原爆の犠牲者を含めた戦争の犠牲者への鎮魂の思いを込めた演奏を」という山田監督の願いを汲み、坂本龍一+東京フィルが奏した音楽の数々。全28トラック収録。
記事提供:ニューヨークビズ
『NEW YORK 摩天楼便り-マンハッタンの最前線から-by 高橋克明』
著者/高橋克明
全米No.1邦字紙「WEEKLY Biz」「ニューヨーク ビズ」CEO 兼発行人。同時にプロインタビュアーとしてハリウッドスターをはじめ400人のインタビュー記事「ガチ!」を世に出す。メルマガでは毎週エキサイティングなNY生活やインタビューのウラ話などほかでは記事にできないイシューを届けてくれる
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