東芝の粉飾決算は、「嫉妬」が生んだ原発スキャンダルだった?

 

次期経団連会長だと?

こうして、福島事故のA級戦犯の1人に列せられておかしくない佐々木だが、そうは簡単にはあきらめない。第2次安倍政権が誕生するや、13年1月には早速「経済財政諮問会議」の2人の民間議員に三菱ケミカルの小林喜光会長/経済同友会代表幹事と共に名を連ね、14年9月には小林と2人揃って「産業競争力会議」の民間議員に移り、それを通じてアベノミクスの「成長戦略」の中に原発再稼働と海外への輸出を柱として織り込むよう奮闘した。もはや「安倍と最も親しい財界人」となった佐々木は、13年6月には東芝の副会長になると同時に経団連の副会長にも就任し「次期経団連会長候補」に名を上げられるまでになった。

世に「原子力ムラ」と言われるが、その骨格をなすのは

  1. 電力会社や東芝はじめ原子炉・発電機メーカーなど産業界
  2. 経産省はじめエネルギー庁・規制庁など官界
  3. 東大工学部原子力学科を中心とする御用学者

──の産官学のトライアングルである。原子力の裾野は広く、原子炉などの機器メーカーだけでなく、素材や部品をつくる鉄鋼・特殊金属メーカー、大規模工事を請け負うゼネコン、燃料の輸入や原発の輸出に携わる大手商社、それらの金融を受け持つメガバンクなどはみな広義での原子力関連産業であり、それは実は、ほぼそのまま、経団連の中心企業なのである。

かつて「経団連御三家」と言えば東芝、新日鉄、東電(今や東電にかわってトヨタか?)で、中でも東芝は「経団連を作ったのは我が社」と言い出しかねないほどの強烈な本流意識を抱いてきた。それはある意味で当然で、経団連の初代会長は石川一郎(日産化学社長)で、後述のように彼こそが「原子力ムラ」の基礎を築いた中枢人物なのだが、その後を受けて1956年に第2代会長に就いたのが石坂泰三(東芝社長)で、68年まで12年間君臨して「財界総理」という称号をマスコミから与えられた。1代おいて74年から80年までの6年間、第4代を務めたのが土光敏夫(東芝会長)で、そうしてみると復興から高度成長に向かい、石油ショックをも乗り越えてさらに前進した戦後日本経済の最も輝かしい時期の財界トップを東芝出身の2人が計20年間も占めていたことになる。

その後、会長の座は稲山嘉寛(新日鉄)、斎藤英四郎(同)、平岩外四(東電)、豊田章一郎(トヨタ)、今井敬(新日鉄)、奥田碩(トヨタ)、御手洗冨士夫(キャノン)、米倉弘昌(住友化学)、榊原定征(東レ)と遷移して、東芝に戻ることはなかった。それだけに、東芝にしてみれば3人目の経団連会長を出すことは悲願で、実際、00年に東芝の社長から会長になった西室泰三(現日本郵政社長/70年談話有識者懇座長)も、その直系で次の次の社長・会長だった西田厚聡(今回相談役を辞任)も、東芝会長の任期を伸ばすなどしてさんざん足掻き回ったが、届かなかった。パソコン・半導体など軽電部門出身の西室・西田からすれば、重電部門から駆け上がってきてしかも原子力で巨額損失を作りだした張本人である佐々木が、自分らを差し置いて財界トップの座を手に入れることだけは許せなかった、という経営陣内部の嫉妬狂いが、このスキャンダル暴発の一因だったと言われている。

>>次ページ どうして東芝は粉飾決算せざるを得なかったのか?

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