真田丸ロスまであと2話。幸村と共に闘った「五人衆」のその後は?

 

毛利勝永(もうり・かつなが 1578年-1615年)

「幸村」と同じく、「勝永」という名前は当時の資料にないそうで、資料では毛利吉政という名前が残されています。また元は森という名字で、秀吉の指示で毛利になったと言われています。『真田丸』を観ていると、大坂の陣で急に出てきた感じがありますが、割と古くから秀吉に仕えています

関ヶ原では西軍に付き、勝永は前哨戦などで活躍したのですが、実家の豊前も小倉城を官兵衛(黒田如水)に落とされるなどし、お家は改易。加藤清正や、山内一豊の元を転々としながら保護を受けていましたが、大坂の陣を迎えるにあたって秀頼から請われ徳川の手伝いに行くと嘘をついて出奔します。

大坂城に入ってからは『真田丸』のとおり、又兵衛たちと共に、大坂五人衆として活躍します。岡本健一さん演ずる勝永、かっこいいですよね。ジャニーズで男闘呼組のメンバーとして活躍されていたと聞けば、私たちの世代には納得。息子は同じくジャニーズで、「Hey! Say! JUMP」のメンバーです。

長宗我部盛親(ちょうそかべ・もりちか 1575年-1615年)

四国の雄、長宗我部元親の四男です。長兄が豊臣との戦で亡くなった後、父親の後押しもあり、兄弟を押しのけて若くして家督を相続。家督相続後、父親と共に領国経営にあたります。豊臣との関係は微妙なものと言えば微妙なもので、扱いは低かったとも言われていますが、だからこそなのか関ヶ原では西軍に。

で、西軍に付くも、前方に布陣した毛利の陣は東軍に内通しており、どうやら敗色が濃いということもあり、動けないままに終了。親交のあった徳川重臣の井伊直政に勧められて家康に謝罪するも、なんだかんだで結局改易に。

家臣たちとも散り散りになり、京都で蟄居生活を送っていましたが、大坂の陣を迎えるにあたって、これまた徳川に味方したいんだと嘘をついて京都を脱出。大坂城に入り、長宗我部家の再興を期する旧家臣団も盛親の元に集まります。そのため大坂五人衆の中では、最も大きな勢力を従えています

『真田丸』では阿南健治さん演じる盛親の濃い顔がなにより印象深いですが、12月4日の放送でもあったように、お家の再興が悲願です。そのためならなんでもします。最期の最期まで命を繋ごうと敗戦後も自刃しませんでした

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