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ピクサー最新作「インサイド・ヘッド」が子供向けなのに哲学的すぎる

「トイ・ストーリー」や「ファインディング・ニモ」など数多くの名作を世に送り出してきたピクサー・アニメーション・スタジオ。その最新作「インサイド・ヘッド」が絶賛公開中ですが、「SRサイタマノラッパー」シリーズでお馴染みの映画監督・入江悠さんによると「これまでのピクサー映画の中で、もっともチャレンジングかつ問題作」なんだとか。メルマガ『入江悠presents「僕らのモテるための映画聖典」』に記されたその理由をチェックしてみてください。

「インサイド・ヘッド」で思い出す、2年間喋らなかったあの娘

今回は久しぶりにアニメ長編である「インサイド・ヘッド」を取り上げたいと思います。

問題作です。

子供も楽しく観られるように作られていますが、かなり哲学的な映画です。

コレを作ろうと思った奴、とんでもない!
コレを作ろうと思った奴に、GOサインを出した奴、とんでもない!

ピクサーがとんでもないというのは知ってたけど、こんな領域にまで突っ込んでいくなんて、あんたたち、何を考えているの! そんな企画です。

ある子供の頭の中に「楽しい」や「悲しい」や「怒り」という、それぞれの感情を担当するキャラクター化された司令官がいて、何かの出来事があった時にボタンを操作して子供の感情を決める。

主人公がおもちゃでキャッキャと遊んでいる時は、「楽しい」担当が「楽しい」ボタンを押す。アイスホッケーの試合で負けてしまった時には、「悲しい」担当が「悲しい」ボタンを押す。日々の場面で、それぞれの感情担当者が議論をしながら、合議の上で「今は私よ!」と感情を決めていくということになります。

これ、ちょっと考えるだけで、相当やばくないっすか? 科学と文学が交わる領域のど真ん中に踏み込んでいます。だって、人間の感情を、限りなく最小化した要素に分解してしまうんですよ。数えられる要素によって、全体の振る舞いが決定されるという理解。いわゆる還元主義と呼ばれる考え方です。

たとえば、色の場合は「RGB」という3つの三原色を使って、複雑な中間色なども表現します。「R=赤、G=緑、B=青」を混ぜると、橙色も紫色も出来る。しかし、感情はどうなんでしょうか。「楽しい」と「悲しい」の間にはどんな感情があるのでしょうか。この辺までは、科学的、心理的、もしくは脳科学の領域になりそうです。

一方で、文学的な問題もあります。「モノは言葉によってはじめて認識される」という考え方です。人間は、犬という言葉を作ってはじめて犬を認識した。犬もオオカミも表す言葉がない段階では、足が速く、四つ足で、歯が鋭い動物、くらいの認識かもしれません。

じゃあ、感情はどうなんでしょうか。今回の「インサイド・ヘッド」では、「侘び」担当はいません。俳句に代表される「侘び」は日本人には馴染みがあるけど、アメリカ人では担当がいなくて良し、ということはないはずです。大人になって「侘び」の世界を理解し、ハマっていく外国人もいるからです。

これだけでも、本作の描こうとするテーマの深さ、大変さが、映画を観ている僕の頭をぐるぐると回転させたのですが、さらに映画は一歩先に進みます。

1つの事件によって、ある感情の担当者が不在になってしまい、主人公の女の子はふさぎこんでしまうのです。いえ、感情の担当者が不在になっているので、「ふさぎこむ」は正確ではなく、その感情が「無」になってしまいます。すると、映画では女の子はどうなるか。学校でも家でも「無口」になった状態で描かれます。周囲の人たちとコミュニケーションを取るのが難しくなったように見えます。

>>次ページ 入江監督が思い出した小学校の同級生

僕はここで小学校の時のある同級生の女の子のことを不意に思い出しました。その子とは2年間同じ教室で過ごしたのですが、彼女は授業中のみならず休み時間も放課後も含め、一度も喋りませんでした。僕が見る限りですが、彼女は笑ったり、泣いたり、怒ったりした表情も一度も見せませんでした。では、彼女の中では、ある感情の担当者が不在だったのでしょうか。僕には、どうしてもそうは思えなかったのです。

子供ながらに僕は、「家で何かあったのかもしれない」とか、「何かの出来事が喋ることを拒絶させてるのかも」と邪推していました。かといって、周囲の同級生たちは(僕も含めて)、いじめるわけでも無視するわけでもなく、自然に彼女を受け入れていました。いま思うと、それは彼女の毅然とした佇まいと品の良さゆえかもしれません。

結局、僕は彼女とクラスが別々になるまでの間に、「彼女が喋らない」ということが何に起因するのか、理解することはおろか、理解のいとぐちを見つけることもできませんでした。つまり、アウトプットは見えても、インプットは見えませんでした。

「インサイド・ヘッド」は、果敢にもこのインプットを描く映画です。外側の世界に向かって放つアウトプットを、内面のインプットと関連付けていく、という作業です。かつて2年間喋らなかった女の子と同じ教室にいた僕にとって、その作業はかなり暴力的、とも映ります。

一方で、いったいあの子はその後どうしたのだろうか、なぜあれほど硬く口を閉ざしていたのだろうか、という謎は、ある種の勝手な罪悪感とともに僕の中にあります。無粋を承知でいえば、そのブラックボックスをブラックボックスのままにしておきたくはなかった、という当事者ではないゆえの好奇心かもしれません。

これまで、おもちゃや車、ロボットなど、人間以外のものを擬人化しキャラクター化することによって、世界と人間を別の視点から見つめることを可能にしたピクサー。より実体の捉えがたい「感情」をキャラクター化した彼ら、彼女らの、その貪欲なクリエイティビティに敬意を表しつつ、この映画が投げかけた疑問について、僕はもっといろんな人と語りたい。僕らの感情とか振る舞いってなんだろう、そういう哲学的な話がしたい。そんなことを思いました。

「インサイド・ヘッド」が提示した脳内の世界のインプットは、はたして、どれほど人間の精神や感情に肉薄できているのか、一度観ただけではなかなか理解しきれないものがあるからです。

しかし、わからないものをわからない、と放置しておくのではなく、「いっちょこいつを理解するために、作品を通して考えてみるか!」と奮い立ったであろう、ピクサーの制作陣の果敢さには拍手を送りたい。おそらく彼ら、彼女らこそが知りたいことを少しでも知るために、答えは見えていないけど探求してみる、という姿勢だったはずです。

制作者が答えを知っていることを、「これが答えですよ」と提示するのは、映画に限らず、小説でも絵画でも漫画でもあまり面白くはありません。制作者の楽しくも苦しい格闘の痕跡が見えるものは、僕たちに思考を始めるきっかけを与えてくれます。そういう意味で、「インサイド・ヘッド」はこれまでのピクサー映画の中で、(テーマの深遠さ、という意味で)もっともチャレンジングでした。

余談ですが、テーマの深さは別として、各キャラクターの楽しさはさすがピクサーの一言です。愉快なキャラクターや「あるある」ネタに何度も笑ってしまいました。

あと、ミヒャエル・エンデの小説「はてしない物語」のような、記憶にまつわるシーンではウルルッと来てしまいました。あの「記憶」シーンのおかげで、僕はあの子のことを思い出したんだよ!というわけで、星は2つ! ☆☆

今回の教訓

僕らは、年をとるほどいろんなことを忘れていく。失った記憶を取り戻すために、映画を観るのかもしれない。

image by: インサイド・ヘッド公式サイト

(C)Disney

 

『入江悠presents「僕らのモテるための映画聖典」』より一部抜粋

著者/入江悠
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