ピクサー最新作「インサイド・ヘッド」が子供向けなのに哲学的すぎる

 

僕はここで小学校の時のある同級生の女の子のことを不意に思い出しました。その子とは2年間同じ教室で過ごしたのですが、彼女は授業中のみならず休み時間も放課後も含め、一度も喋りませんでした。僕が見る限りですが、彼女は笑ったり、泣いたり、怒ったりした表情も一度も見せませんでした。では、彼女の中では、ある感情の担当者が不在だったのでしょうか。僕には、どうしてもそうは思えなかったのです。

子供ながらに僕は、「家で何かあったのかもしれない」とか、「何かの出来事が喋ることを拒絶させてるのかも」と邪推していました。かといって、周囲の同級生たちは(僕も含めて)、いじめるわけでも無視するわけでもなく、自然に彼女を受け入れていました。いま思うと、それは彼女の毅然とした佇まいと品の良さゆえかもしれません。

結局、僕は彼女とクラスが別々になるまでの間に、「彼女が喋らない」ということが何に起因するのか、理解することはおろか、理解のいとぐちを見つけることもできませんでした。つまり、アウトプットは見えても、インプットは見えませんでした。

「インサイド・ヘッド」は、果敢にもこのインプットを描く映画です。外側の世界に向かって放つアウトプットを、内面のインプットと関連付けていく、という作業です。かつて2年間喋らなかった女の子と同じ教室にいた僕にとって、その作業はかなり暴力的、とも映ります。

一方で、いったいあの子はその後どうしたのだろうか、なぜあれほど硬く口を閉ざしていたのだろうか、という謎は、ある種の勝手な罪悪感とともに僕の中にあります。無粋を承知でいえば、そのブラックボックスをブラックボックスのままにしておきたくはなかった、という当事者ではないゆえの好奇心かもしれません。

これまで、おもちゃや車、ロボットなど、人間以外のものを擬人化しキャラクター化することによって、世界と人間を別の視点から見つめることを可能にしたピクサー。より実体の捉えがたい「感情」をキャラクター化した彼ら、彼女らの、その貪欲なクリエイティビティに敬意を表しつつ、この映画が投げかけた疑問について、僕はもっといろんな人と語りたい。僕らの感情とか振る舞いってなんだろう、そういう哲学的な話がしたい。そんなことを思いました。

「インサイド・ヘッド」が提示した脳内の世界のインプットは、はたして、どれほど人間の精神や感情に肉薄できているのか、一度観ただけではなかなか理解しきれないものがあるからです。

しかし、わからないものをわからない、と放置しておくのではなく、「いっちょこいつを理解するために、作品を通して考えてみるか!」と奮い立ったであろう、ピクサーの制作陣の果敢さには拍手を送りたい。おそらく彼ら、彼女らこそが知りたいことを少しでも知るために、答えは見えていないけど探求してみる、という姿勢だったはずです。

制作者が答えを知っていることを、「これが答えですよ」と提示するのは、映画に限らず、小説でも絵画でも漫画でもあまり面白くはありません。制作者の楽しくも苦しい格闘の痕跡が見えるものは、僕たちに思考を始めるきっかけを与えてくれます。そういう意味で、「インサイド・ヘッド」はこれまでのピクサー映画の中で、(テーマの深遠さ、という意味で)もっともチャレンジングでした。

余談ですが、テーマの深さは別として、各キャラクターの楽しさはさすがピクサーの一言です。愉快なキャラクターや「あるある」ネタに何度も笑ってしまいました。

あと、ミヒャエル・エンデの小説「はてしない物語」のような、記憶にまつわるシーンではウルルッと来てしまいました。あの「記憶」シーンのおかげで、僕はあの子のことを思い出したんだよ!というわけで、星は2つ! ☆☆

今回の教訓

僕らは、年をとるほどいろんなことを忘れていく。失った記憶を取り戻すために、映画を観るのかもしれない。

image by: インサイド・ヘッド公式サイト

(C)Disney

 

『入江悠presents「僕らのモテるための映画聖典」』より一部抜粋

著者/入江悠
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