日本時代に帰りたい。台湾人女性が語る「美しき幸せな日々」

 

清潔で治安の良い街

楊さんは昭和7(1932)年、台南市に生まれた。父は台北工業高校を首席で卒業し、台湾電力に勤めていた。多くの日本人の部下を抱え彼らから尊敬されていた。日本統治下に生まれた父親は完全な日本人になりきっており、楊さんが生まれてからは家庭でも日本語で通した。ただ母親は日本語が片言しかできなかったので、楊さんは母親とは台湾語で話した。

父親は銭湯が好きで、よく楊さんの手を引きながら、連れて行った。道すがら「お手々つないで」や「夕焼け小やけ」など日本の歌を教えてくれた。

日本時代の町の特徴はとにかく清潔なことだった。朝早く起きて、戸を開け、まず家の掃除。その後、家の前の道を掃くのだが、隣の家がまだ起きてなかったら、そちらも掃いてあげる。そうすると、今度は隣の家が翌朝はもっと早く起きて、こちらの分まで掃いてくれるのだった。

道路脇の側溝を掃除するおじさん、散水車、除草の車なども朝早くやってくる。こういう作業員はみな政府に雇われていた。かつては「瘴癘(しょうれい、風土病)の地と呼ばれた台湾の衛生状態を改善するに日本政府は力を入れていたのである。

治安も良かった。今の台湾では窓に鉄格子をしているが、日本時代には鉄格子のない家で、戸締まりなどしなくとも安心して眠ることができた。道ばたで物を拾っても、自分のものにすることもなかった。楊さんの家の前には派出所があり、日本人のお巡りさんがいた。楊さんが時々落とし物を拾って届けると、「君、また拾ってきたのか」と褒めてくれた。

日本人のお隣さんたち

楊さんの家の周囲には、日本人がたくさん住んでいた。お向かいの金子さん、裏には榊原さん、中学教師の広瀬先生、台南の法院長を務めていた緒方さん。

このあたりで電話があるのは楊さんの家だけだったので、ご近所あてに電話があると、楊さんは走って「電話ですよ」と呼びに行った。呼ばれた日本人の家では、後でかならずお寿司などを持ってお礼にきた

また近所の日本人は、よくおはぎをたくさん作っては、親子揃って、楊さんの家に遊びに来た。楊さんの家でもお返しに台湾餅などを作った。それを届けるのも楊さんの役目だった。

台湾にも隣組の制度があり、日本人と台湾人の区別なく構成されていた。朝は、幾つかの隣組が集まり、組長さんが交代で号令をかけてラジオ体操をする。

天皇誕生日などの祝日には、町中の家が日の丸を揚げていた。台湾は即ち日本であり自分たちは台湾に住んでいる日本人としか思っていなかった

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