思い出したい。日本人が忘れかけている「いただきます」の誇り

 

誰に向かって「いただきます」と言うのか?

日本人は食事をする時に「いただきます」と言うが、これは誰に言っているのだろう。

一つの答えとしては、食事を与えてくれた人に対する感謝の言葉である、という考え方だ。とすると、学校の給食では親が給食費を払っているので、子どもたちが「いただきます」という必要はないという事になる。

こういう理由で自分の子供に「いただきます」というのを拒否させる親もいるそうだが、我々の素直な感性からすると、こういう親はモンスター・ペアレントではないか、という気がする。自分のお金で出された食事に対しても、「いただきます」と言う人はいるし、それに対しておかしいという感じはしない。

もう一つの答えは、食事を作ってくれた人に対する感謝の言葉というものである。確かに、子どもたちが食事を準備してくれた母親に「いただきます」という時には、これに当たるかも知れない。しかし母親も、自分で作った料理に対して「いただきます」と言ったりする。

この問題に対して、宇根さんは「いただきます」とは、「命をいただくことに対する感謝の気持ちである、と説く。食べ物は、穀物にしろ、野菜にしろ、魚にしろ、肉にしろ、すべてもともとは生きものである。その命をいただいて、我々は自らの命を維持している。それに対する感謝の念が「いただきます」には籠もっているのである。

我々は食べ物を通じて生きとし生けるものの命とつながっている。そして農業は生きものの命から食べ物を作り出し、我々の命を養うという重要な役割を果たしているのである。

百姓と自然が数百年をかけて、土を作り上げてきた

子供たちの教育の中で、農業体験が取り入れられるようになっている。宇根さんの田んぼに田植えにやってきた都会の子どもが、「どうして田んぼには石ころがないの?」と聞いた。

「うーん、そんなことはあたりまえじゃないか」と言いかけて、宇根さんははっとした。

石ころがなくなったのは、百姓が足にあたるたびに、掘り出して、捨ててきたからである。それも、10年、20年でなくなったわけではない。これが土の本質である。土の中にはたぶん百姓と自然が、土を作り上げてきた数百年の時が蓄積されているのだ。
(『国民のための百姓学』宇根豊・著/家の光協会)

初めて田んぼに足を踏み入れた子供たちは、田んぼの土のぬるぬるとした感触に驚く。

この土のぬるぬるとした感じは、数十年数百年かけて、百姓が耕し、石を拾い、有機物を運び込み、水を溜めてつくってきたものだ。

 

しかし、百姓だけがつくったのではない。自然からの水が、山や川床からの養分を運び入れ、田んぼの中では藍藻類が空気中の窒素を固定し、稲の根が深く土を耕すから、こんなに豊かな土ができるんだ。

 

このぬるぬるは、生きものの命の感触なんだ。だから水を入れて代かきすると、ミジンコや豊年エビやトンボなどが生まれてくるし、いろいろな生きものが集まってくるんだ。
(同上)

こうした田んぼで、稲が育つ。だから米は「とれる」「できる」もので、人間が「作る」ものではない。人間が関与できるのは、「土づくり」だけだ。その土も、山や川、藍藻類やオタマジャクシなどの自然と、石を拾ったり、水を引き込んだりする人間との共同作業なのである。

農業とは自然に働きかけて自然からめぐみをいただくことである。そして農産物とはそのめぐみのごく一部に過ぎない。

こう考えると、農業こそは、自然に抱かれ自然の恵みに養われて生きている人間の本質に根ざした営みである。近代科学技術、近代工業の発展によって、その自然が忘れ去られた事で、こうした農業の真の姿も見えなくなってきたのだろう。

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