どこか懐かしい食べ物を愛情込めて紹介する無料メルマガ『郷愁の食物誌』。今回は、著者のUNCLE TELLさんが日本の国民食と言っても過言ではない「あんパン」誕生の歴史について詳しく紹介しています。お気に入りのあんパン片手にご一読ください。
あんパン誕生の秘密 その1
明治7年(1874年)木村屋があんパンを考案し販売したことは、すでに何回かふれてきたが、ここでその誕生の秘密や背景を、二、三の文献からちょっとばかり探ってみよう。
元藤堂藩(津藩)江戸お船倉の勤番士だった木村安兵衛(別の文献では茨城県出身とも)は、維新後の明治2年(1869年)芝日陰町(新橋)に洋風雑貨兼パン店を開き文英堂と名付けた。文明開花の「文」と長男英三郎の「英」をつなぎ合わせではないかとも推測される。
パン屋を始める前は、一時授産所のようなところに勤めていて、そこで長崎から出てきたパン技術を習得していた梅吉に出会う。そして長崎出島のパン焼きの話に大いに興味を持つ。この当時の長崎は蘭学のメッカであり、この頃は、はやりのパン作りの技術を習得するには最適の土地だった。
安兵衛は、この梅吉の協力を得てパン作りを始める決心をし、授産所を辞める。
翌年(明治3年)には京橋区尾張町(銀座)に移り、屋号を木村屋に改めた。
当時、横浜では異人のベーカリーがすでにビール酵母を使うホップ種の本場風食パンを焼いていた。長崎仕込みの梅吉を頼りにしていた木村屋のパンはどうも旧式で売れ行きが悪い。それにホップ種は外国人仲間で融通しあって、日本人には手に入らない仕組みになっている。このホップ種が入手困難なためもあり、日本人のパン作りには甘酒による発酵が一般的であったが、このためあまりふくらまない堅いパンだったのである。
それではと思いついたのが、日本の伝統的なまんじゅうの酒種でパン生地を作り、まんじゅうのようにあんを入れること。思いつきはよかったが、いざことは簡単に運ばなかった。失敗にめげず、それから実に6年近い年月も要してやっとあんパンは陽の目をみるのである。まだパンが庶民に人気もなく、認知もされていない時代に、安兵衛は梅吉と息子の英三郎と一緒に、数々の創意と工夫をこらしたあんパン作りに挑戦したのだった。
安兵衛と梅吉、英三郎はあんパン作りに向け寝食を忘れるくらいに知恵を絞った。先ず状況と問題点を分析。
- 日本人は、酒まんじゅうや大ふくもちなど、あんを包んだ和菓子が好きである。
- パンは、これらの菓子とは異質の味であり、その風味も気になる。
- パン生地に砂糖や鶏卵を加えたら、和菓子の味にならないか。
- あんを包みこんで蒸すのではなく、パンのように焼けないか。
- 日本人に好まれる発酵の風味が出せないか。
しかし、試作の繰り返しは失敗の連続だった。酒種は発酵の管理が難しい。砂糖が多いのでうまく発酵してこない。生地がダレてしまって、パンにならない。しかし安兵衛らはくじけなかった。更に試行試作を繰り返す。そして、ついに米麹種という独特の工夫をこらした発酵を完成させる。
すなわち酒づくりに使うモロミ段階のものなら、甘酒などよりはるかに発酵力が強く、これなら相当砂糖を加えたパン生地でもふんわりと膨らむことが、実験の繰り返しでわかったのである。
これはもう異人ベーカリーの食パン生地ではなく、まんじゅうの皮ともパンともつかぬ発明品だった。安兵衛はこれで小豆あんを包み、しかも蒸すのではなく焼き上げた。世紀のあんパンの誕生である。
バルコニー付きのしょうしゃなレンガ作り2階建てが並ぶ銀座の表通り、まるでそこだけヨーロッパが引っ越してきた感じだったといわれるが、意外に空き家が目立ち、景気は今ひとつだった。そしてこの通りに、新橋・日本橋間の鉄道馬車が開通するのが明治15年(1882年)。にわかに活気の出始めたこの街で、最初の日本人ベーカー木村屋のあんパンが名物になり、売れ行きも激増して行く。明治から大正の末にかけ、毎日10万個のあんパンが売れ、いつも店頭に長蛇の列ができるほどだったという。
明治7年(1874年)発売された木村屋のあんパンは大評判。そのうわさはやがて宮中にも届く。文献などによると、明治天皇にあんパンをすすめたのは侍従だった山岡鉄太郎(鉄舟)ということになっている。もしかして、巷のうわさをもれ聞いた天皇自らが、食べてみたいと言ったのかもしれないとも考えたが、宮中のシステムではそんなことはありえないか。
天皇のあんパン試食の日は、その翌年の明治8年(1875年)4月4日。天皇の御口に入るまでには、それなりの工夫・根まわしが必要だったようだ。
すなわち、京都以来の宮中御用達で固められた中へ新興のパン屋が入り込むのは容易ではない。そこで、山岡鉄太郎は一計を案じ、何とあんパンを水戸名産ということにしてしまったともいうのだが...。
あんパンを食した明治天皇が、実際なんと言ったかはわからないが、いずれにしてもあんパンが天皇家の人々に大いに気にいられたのは確かなようだ。以来、木村屋は宮中御用達という誉れを得るのである。
木村屋では宮中に納めるあんパンに限って真ん中にへこみをつけ、そこに桜の塩漬をのせた。これがため木村屋のへそパンとして名を馳せた。あんパンの中央部がへこんでいるのはこれ以来のようである。
あんパンの流行は、地方へも広がって行く。記録(「明治文化史」生活編)では、山口県大島氏の某氏は、明治26年(1893年)、広島であんパン3個を3銭で買ったという。また明治43年(1910年)には、盆の贈りものや法事の引出ものにあんパンが使われたとも。
日本という国は、一種のふきだまりの国だという。「ふきだまり」というのは、風に吹かれて雪などが一ケ所にたまったところの呼び名であるが、大陸から日本海を越えてこの国に来た西からの文化は、交通手段の近代化が実現するまで、太平洋を越えて新大陸に移動することがなかった。だからこの島で大陸文化が積み重なったのであって、パン食の文化もその例外ではなかったというわけである。
オリエントから中国、朝鮮系の各種パン(麺包)と、ポルトガル、イスパニア、オランダ、フランス、イギリス、ロシア、アメリカ、インド、エジプト、アラブなどのパンのすべてが、今の日本のベーカリーの店頭を飾っているのもこのためなのだという。
ただ一つ例外ともいうべきものが、明治初頭、日本産の酒種生地のあんパンに始まる菓子パン群なのであろう。あんパンは、もう100年を超える歴史をもつ食文化なのであり、後世に伝えるべき文化遺産なのである。
デニッシュペストリーのあんパンの方が口当たりがいいし、好みだという人も多いだろうし、フランスパン風の生地のあんパンも喜ばれる。揚げパンも揚げあんパンだという人、店もあるくらいであんパンの一種だし、ほのかな酒のかおりがする元祖、酒種を使ったあんパンも売っているし、あんパンのバリエーションもいろいろ広がっている。また海外に進出しているあんパンもある。
ベーカリーのサンジェルマンは50年代末、パリに支店を開設。本場フランスの業界に堂々伍し、評判もすこぶるいいという。そしてパリッ子に一番人気があるのはあんパンとか。
運動会のパン食い競争のあんパン、遠足やおやつのあんパン、そのほかさまざまな思い出あんパン…世代を越えた人々の郷愁の中にあんパンは生きつづけてきたし、これからもずっずっと愛され食べつづけられるだろう。それになんといっても、あんパンには”アンパンマン”っていう強〜い味方がついているのだから。