中国共産党が最も恐れた男・劉暁波氏はどんな人物だったのか?

 

劉暁波さんとは2 ~天安門事件

さて、劉暁波さんがコロンビア大学に来た1989年。世界は大激動の時代に突入していました。具体的には、共産陣営で「民主化運動」が大いに盛り上がっていた。その流れをつくったのが、ソ連のゴルバチョフ。彼は1985年、ソ連書記長に就任すると「ペレストロイカ」(再建)なる政策を開始したのです。

ペレストロイカ」は、要するに政治・経済の自由化を推進するものでした。これによって、ソ連、東欧、中国などで、民主化運動が盛り上がっていったのです。

天安門事件の3年前、1986年12月、中国科学技術大学で学生たちが「民主化」を求める集会を行いました。これがきっかけで「民主化運動」は全国に広がります。北京・上海・天津・南京等、18都市150大学で、集会・デモが行われました。

この時、中国の総書記は、穏健で開明的で親日の胡耀邦さん。彼は、全国に広がる「民主化運動を容認していました。しかし、「あまりにも寛容すぎた」ことが理由で87年1月、総書記を解任させられてしまった。

1989年4月、胡さんは、心筋梗塞で急死。北京大学で「民主化を支持した指導者胡さんの追悼集会が行われます。同大学の動きは、またもや全土に広がっていきます。天安門広場に、市民や学生が続々と集まってきました。学生たちは、「胡耀邦の業績を再評価するよう」政府に要求します。さらに、「言論の自由」「官僚汚職追放」など、要求は拡大していきました。

1989年4月19日、天安門広場に集まる学生・市民の数は10万人まで増加。東欧・ソ連で起こっていることを知る共産党指導部は、「これを放置しておくと、革命が起こるかもしれん」と恐怖します。鄧小平は、「民主化運動の弾圧・鎮圧を決意しました。

この動きを、アメリカで見ていた劉暁波さん。もはやいてもたってもいられなくなり、中国に帰国。(89年4月27日)。民主化運動に参加し指導的な役割を果たしました。

1989年5月15日、「民主化のシンボル的存在」だったゴルバチョフが中国を訪問します。5月17日、天安門広場になんと100万人(!)が集結。中国全土では、なんと1,000万人が「民主化デモ」に参加しました。

89年5月20日、北京に戒厳令が出されます。6月4日、戦車・装甲車が天安門広場に突入。「民主化運動」を武力により鎮圧します。「天安門事件」の死者は、公式には319人、負傷者9,000人と言われていますが、実際はもっと多かったことでしょう。

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