後年、ヨーロッパ社会は新大陸にも膨張し、今のアメリカを建設します。このことによって、長い世界史の流れのなかで、ローマをご先祖様とするキリスト教社会と、東方のイスラム社会とがユーラシア大陸の西半分の文明を二分するのです。この東西の対立が、現在も尾を引いているというわけです。
ですから、ヨーロッパ社会とその延長となるアメリカは、常に中東の問題に目を光らせ、必要に応じて鋭く介入します。
これは2000年にわたる東西の対立の中で培われた遺伝子のようなものです。この介入に対抗していたイスラム社会は、15世紀以降オスマントルコがその盟主となりました。彼らは、1453年にはローマ帝国を継承していた東ローマ帝国を滅亡させ、17世紀には当時の西ヨーロッパの中心であったウィーンなどへも遠征しました。
しかし19世紀になってその大帝国が衰微したころに、逆にヨーロッパ諸国は産業革命を経て力を蓄えたのです。欧米の脅威と、衰退するオスマントルコへの民族運動が融合する中、ちょうどキリスト教にとってのローマのように、イスラム教の聖地メッカのあるサウジアラビアが、20世紀にイスラム社会の精神的支柱となる国家として建国したのです。
建国前夜にはオスマントルコの衰亡を企むイギリスなども大きく関与します。ですから、サウジアラビアは伝統的にイスラム右派を標榜する国家でありながら、親米、新ヨーロッパ政策を継承してきたのです。
もちろん、キリスト教がカトリックやプロテスタント諸派に分離したように、イスラム教もスンナ派やシーア派など諸派に分離し対立します。スンナ派の拠点がサウジアラビアであれば、シーア派の拠点はイランです。こうした内部対立はあるものの、世界がキリスト教とイスラム教との対立を軸に激しく争い、混乱を生み出しているのはこうした背景によるのです。
今回のヘッドラインは、そんなサウジアラビアにおきた政変です。スンナ派の盟主とされるサウジアラビアの今後は、今中東でおきている様々な政治問題にも微妙な影響を与えるはずです。だからこそ、あえて2000年にわたる東西交流と対立の歴史を紐どきながら、今回のサウジアラビアの情勢を注視してゆきたいのです。
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