高杉晋作に、「萩へ戻れ」という命令が下った。これが、10月初旬のことであり同月17日、晋作は萩に向って旅立った。このことを告げに伝馬町の牢へいくと、松陰はしみじみといった。
「このたびの私の災厄に、きみが江戸にいてくれたのでどれだけ助かったか分らない。僕はたいへん幸せだった。きみの好意に深く感謝する。急に国へ帰られるときいて、本当に残念でならない」
一言一言が高杉晋作の胸にそれこそグッと迫るものを持っていた。
かつて、東北の米沢藩主上杉鷹山が、その師細井平洲を米沢に迎えた時のことを、「一字一涙」という表現で示した碑文が現地に残されている。高杉晋作にとってこの時の師松陰の言葉はそのまま、「一言一涙」であった。この時松陰は晋作に、一人ひとりの弟子についてその勉強ぶりや、自分がいま心配していることなどを詳しく告げている。
普通なら、すでに死を覚悟した師の立場であれば、おそらくすべての門人について褒め称え、「がんばってもらいたい」というような月並な言葉を残していくに違いない。松陰は違った。たとえば、
「吉田栄太郎は周囲から志を放棄したとみられているから注意するように。また天野清三郎は才能を頼みすぎで勉強をしないから、学業が非常に劣っている」
などと、至らない弟子たちに対する注意事項も与えている。いかにこの時になっても、松陰が冷静な心を失っていなかったかが分る。高杉晋作は師の言葉を正確に同門の志士たちに伝えた。
吉田松陰は安政6(1859)年10月27日、死罪の宣告をされ、伝馬町の牢獄内で首を落される。遺骸は、その頃処刑された国事犯が埋められる小塚原に埋められた。国事犯なので遺体引き取りや墓を立てることは許されなかった。
そこで文久3(1863)年1月5日になって、京都朝廷が、「いままでの国事犯を全部許す」という大赦令が出たのをきっかけに、高杉晋作は、久坂玄瑞や伊藤俊輔(博文)たちと一緒に、小塚原の刑場にいく。そして白骨と化した師の遺体を掘り起し、若林村(東京都世田谷区若林町)の毛利家の飛地に改葬する。これが現在の松陰神社である。