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炎上した南青山で老舗スーパー閉店。「買い物難民」報道は本当か

「洗練された大人の街に児童相談所はいらない」と建設反対の声が大きく報道され、ネット上で大炎上した東京・港区南青山の一部住民たち。はたして、南青山は今も変わらず「洗練された大人の街」のままなのでしょうか。フリー・エディター&ライターでビジネス分野のジャーナリストとして活躍中の長浜淳之介さんが、現場に直接足を運んで取材を重ね、「子育て世代」が増えている南青山の現状と、過去の「幻想」に執着する住民との認識のズレについて詳しく分析しています。

プロフィール:長浜淳之介(ながはま・じゅんのすけ)
兵庫県出身。同志社大学法学部卒業。業界紙記者、ビジネス雑誌編集者を経て、角川春樹事務所編集者より1997年にフリーとなる。ビジネス、IT、飲食、流通、歴史、街歩き、サブカルなど多彩な方面で、執筆、編集を行っている。共著に『図解ICタグビジネスのすべて』(日本能率協会マネジメントセンター)、『バカ売れ法則大全』(SBクリエイティブ、行列研究所名儀)など。

一部の南青山住民に根深く残る、過去のイメージへの執着と「新参者排除」意識

2月28日、南青山の老舗スーパー「ピーコックストア青山店」が老朽化したビルの建て替え工事のため、閉店した。一部報道によれば、南青山界隈では生鮮三品を扱うスーパーがないため、「買い物難民が発生する」と住民の危機感が高まり、区会議員まで動かして港区に販売を行うように要請しているとのことだった。

しかし、実際に青山界隈を歩いてみると、地域のニーズを拾った新旧の小型スーパーが根付いており、食料品の調達に困る環境であるとは考えにくかった。むしろピーコックは、南青山のランドマークとしての役割を終えたのではないかとの感触を得た。

また、現在の青山通りはベビーカーを押した主婦、ファミリーが目立ち、界隈の高層マンションの建設ラッシュで、子育て世代が増えている。

「洗練された大人の街に児童相談所は要らない」と、一部地元住民が港区による児童相談所の建設に反対運動を起こしていたが、現状認識がズレている。

高度成長期に住民がどんどん郊外へ移って空洞化していた頃の南青山では、その代わりにオフィス、商業、飲食業を誘致しなければならなかったが、いま必要なのは旧来の青山ブランドを維持するための商用目的で現実離れしたような「夢の空間の創造」ではない。新しいファミリーも安心して暮らせる、生活感ある住み良い南青山の街の構築なのである。

南青山では子育て世代が増えている

ピーコック閉店を巡る買物難民発生問題と児童相談所反対運動に共通するのは、南青山住民の一部に根深くある、時代に取り残され、過去のイメージにすがりつく頑迷な新参者排除の意識であった。

南青山で「ピーコックストア」閉店に「買い物難民」報道の真偽

まず、指摘しておきたいのは、「ピーコックストア」が閉店しても、買物難民は出ていないだろうということだ。

ピーコックは青山通り沿いの外苑西通り(通称キラー通り)とクロスする南青山交差点からすぐ西側に位置していたが、交差点からすぐ東には輸入品に強い高級スーパーの「成城石井」が進出しており、南青山の住民のニーズに合った高品質の商品を提供している。しかも24時間営業で、いつでも買えるメリットがある。

成城石井はピーコックとコンセプトが被るうえに、商品開発力、品揃えの自在性など多くの優位点を持った勢いのあるスーパーだ。

● スーパー不振の中、「成城石井」が絶好調であり続ける納得の理由

また、南青山1丁目駅のすぐ南のタワーマンション「パークアクシス青山一丁目タワー」1階には、イオンの子会社まいばすけっと(本社・千葉市美浜区)が経営する都市型食品ミニスーパー「まいばすけっと」があり、リーズナブルに買物をしたいのならば1丁目まで出れば十分である。

さらには、「成城石井」のすぐ向かいの青山通り沿い、北青山にはイオンの新業態「ヴィルマルシェ」1号店が2016年11月にオープンしている。経営はイオンリテール(本社・千葉市美浜区)。体にいいものを揃えたおしゃれな雰囲気のスーパーで、食料品だけでなく、化粧品や雑貨も販売している。

成城石井の商品はおしゃれではあるが、体にいいかどうかにはそれほどこだわっていない。直接の衝突を避けた顧客の開拓を狙っている。

成城石井で販売されている青果

表参道の西側には、イオンがフランスから持ってきた、イオンサヴール(本社・千葉市美浜区)が経営する冷凍食品専門のユニークな高級スーパー「ピカール」日本1号店が骨董通り(高樹町通り)沿いに、同じく16年11月にはオープンしており、高収入ではあるが共働きでご飯をつくる余裕のない主婦のニーズにこたえている。

フランスから直輸入した他店では買えない商品が揃う特別感のある店だ。

● 青山や中目黒の奥様が殺到、パリ発「冷凍食品スーパー」が急拡大

成城石井やイオン系列の店ばかりではない。表参道の西側、北青山には自然派食品・有機野菜などを売る「ナチュラルハウス」、さらには2008年にビル建て替えを終えて再オープンした高級スーパー、紀ノ国屋本店「紀ノ国屋インターナショナル」もある。百貨店のように中にテナントが入るスタイルは、ピーコックと競合しており、老朽化したピーコックよりも優位に立っていた。

紀ノ国屋インターナショナル

このように、ピーコックの穴を埋める6店ものスーパーが南青山及び、北青山の青山通り沿いにあるのだ。

コンビニも、南青山には、2~3ブロックごとくらいには点在していて、半分くらいの店では、ほんの1コーナーではあっても野菜の販売を行っていることが確認できた。

鮮魚の買える店が少ないというが、南青山2丁目には「魚仙」という、戦前から3代続く老舗の魚屋が青山通りからちょっと路地に入った場所にある。確かに全般に鮮魚は手薄ではあるが、ナチュラルハウス、紀ノ国屋、魚仙と回れば、特殊な魚でなければ手に入るだろう。

老舗鮮魚店「魚仙」

それでも、もっと多くの魚種から選びたいというのなら、渋谷区にはなるが並木橋に「ライフ」があるし、西武百貨店渋谷店には南青山のピーコックにもテナントとして入っていた鮮魚専門店チェーン「魚喜」がある。いずれも、ちょっと頑張れば歩いても行けるような距離で、さほどの不自由もないと思われる。

ホームセンターで売っているような生活雑貨は、ピーコックストアの道向いの北青山に「オリンピック」が充実の品揃えを誇っている。

要はイオングループとしてはピーコックが地域の実情に合わなくなった代案として、南青山の東端に「まいばすけっと」、西端に「ピカール」、北青山の中央に「ヴィルマルシェ」を配して、万全の新しい店舗シフトで、ピーコックの閉店を迎えていたと見受けられる。

新業態のピカールは6店、ヴィルマルシェは赤坂にも店ができて2店となっており、いずれも実験段階にあるが、新しい都市住民にこたえようと懸命である。

ピーコックは輸入品を扱うなど高級感ある品揃えが魅力のスーパーではあるが、地場の紀ノ国屋はパワーアップした上に、すぐ近くに成城石井という強い競合店が出てきてしまった。鮮魚くらいしか、勝てるものがなかったのが実態で、閉店はやむを得なかった。

閉店したピーコックストア

地元に長く在った店が惜しまれるのは当然だが、「明日からどこに買いに行けばいいのかわからない」といった、一部の住民の感傷を真に受けて、行政が生鮮の販売に乗り出せば民業圧迫になりかねない。これだけの店舗数があれば十分であるからだ。

現在、ピーコックは2013年よりイオン傘下イオンマーケット(本社・東京都杉並区)が経営している。07年の大丸と松坂屋の経営統合によるJ.フロントリテイリングの発足時には、創業の頃からの大丸ピーコックを屋号として名乗っていたが、13年に改名していた。

青山店は大丸のスーパー部門、大丸ピーコックの関東初進出店として、1964年にオープン。五光ビルの地下1階から3階に出店し、食料品、衣料品、ファッション雑貨などを売り、紀ノ国屋と張り合う品質も評価されて、店の前にバス停も開設されるほどであったが、近年は売上が低迷していた。特に百貨店並みの品揃えを誇ったファッション商品が売れなくなり、実用的な商品と入れ替えてしのぐ苦しさだった。

「不動産価値が下落する」と児童相談所の建設に猛反対した南青山住民たち

一方で、骨董通りの小原流会館の裏にあたる、約3200平方メートルの敷地を国から払い下げ、港区が児童相談所、子ども家庭支援センター、母子生活支援施設を一体化させた「港区子ども家庭総合支援センター」を2021年にオープンすると発表すると、すぐさま住民の一部から反対運動が表明された。

「保育園落ちた。日本死ね!!!」という匿名のブログが話題となり、国会でも論議されたことがあったが、住民の反対で保育園がつくれないケースが各地で起きているのが現状だ。

日本全体が少子化なのに保育園を設置しなければならない地域は、例外的に人口が増えている地域である。そして、子供の多くは新しく入ってきた住民の子女であり、見知らぬ人は排除したいのである。

女性も仕事を持って働く時代には、行政も一体となり、旧住民も新住民もなく地域社会で子供を育てなければならないのだが、残念ながら、日本ではまだそういった認識が広がっていない。

反対運動として「青山の未来を考える会」という団体があるが、考える会のホームページより、考える会から区への質問状を読むと、同センターが虐待を受けている子供や非行少年・少女、生活に困窮する母子の居住をサービスの一環として有していることを問題視している。要は、同センターの子供が、地域の小中学校に通うと、ガラが悪くなるのではないかと懸念しているのだ。

「港区子ども総合支援センター」完成予想図

本当にお金を持っている人は、お受験で子供を私立に行かせると思うので同センター入居者との接触もなさそうなのだが、考える会の事務局はグリーンシードという南青山の不動産会社が事務局になっている。ガラが悪い人が増えると、地域の魅力が減って不動産価格が下落するのではないかと不安視しているのである。

昨年5月に児童福祉法改正により、特別区でも児童相談所を設置することが可能になったので、港区としては切れ目のない子育て支援を実現したいと考えている。

港区の人口は、1959年は26万人ほどまで伸びたが、ドーナツ化のためその後減少が続き、96年には15万人を割った。しかし、この年で底を打って都心回帰のため増加に転じ、19年1月1日現在では再度26万人まで戻している。過去10年で6万人増えている。赤坂地区総合支所管内でも2万9,000人から3万7,000人に増えているが、近年の傾向として、青山通りでベビーカーを引いた人を数多く見かけることだ。

青山通りではベビーカーや電動自転車の往来も多い

「港区子ども家庭総合支援センター」予定地のすぐ裏にあるおしゃれなリゾート風地中海料理レストラン「CICADA」のテラス席もベビーカーが目立つ。

考える会とグリーンシードは、もはや青山が子育ての街として活性化してきていることを見て見ぬふりして、ひたすらアパレル、美容院、カフェやレストラン、雑貨屋、アーチストのオフィスのような商用のおしゃれなビルばかりが増えていた、少し前までへと時計の針を戻したいのだろう。

しかし、子供が増えればどうしてもさまざまな解決すべき問題も起こってくる。今の人口増、子供増の港区では、子育て支援施設こそ最も予算を注ぎ込み一等地に建てるべき施設なのであり、それを正しく行っているだけにすぎない。

作られた「青山ブランド」の終焉。街の歴史を紐解いて見えた、本来の土地柄

青山の歴史を紐解いてみると、江戸時代は江戸市街の辺縁部にあり、武家屋敷が立ち並ぶ屋敷町であった。青山の地名は、三河国の戦国大名であった頃からの徳川家の家臣で、江戸時代になって譜代大名となった青山氏によっており、赤坂御門から丹沢の霊山として知られた大山まで大山詣のために整備された、大山街道(現・青山通り)の北側に宗家・丹波国篠山城主で篠山藩6万石(現在の兵庫県篠山市を中心とする)の下屋敷、南側に分家・美濃国八幡城主で郡上藩4万8,000石(現在の岐阜県郡上市を中心とする)の下屋敷が対峙していた。

南青山も北青山も、徳川家康からの信任が厚く、江戸町奉行さらに老中にまで上り詰める青山忠成に与えられた土地に由来する青山には違いないのだが、こうした歴史的な事情で、隣接する別の地域という意識を持った住人もいるのだ。

現在の青山霊園のほぼ全域が郡上藩青山氏の下屋敷跡であるという。小大名とは思えない大変な広大さで、梅窓院は菩提寺となっている。なお現在の梅窓院本堂は2004年に、建築家の隈研吾のデザインで建て替えられている。

また、青山の初夏の行事として、1994年から6月末には「郡上おどりin青山」が本場・郡上おどり保存会を招いて、開催されている。

江戸時代には青山氏に限らず、大名の屋敷が立ち並んだ青山だが、明治になって東京市が成立するにあたり赤坂区に編入された。1890年には陸軍大学校が、現在の北青山1丁目港区立青山中学校の辺りに移転し、太平洋戦争終戦まで存続した。陸軍近衛歩兵第4連隊、陸軍第1師団司令部も近辺にあった。

そうした事情から、青山は軍関係者や高級官僚たちが住む屋敷街に再編されていった。

戦後になって1946年、現在の代々木公園を中心とする一帯に、アメリカ空軍が建設した兵舎・住居の「ワシントンハイツ」は、青山の今日の発展に大きな影響を及ぼした。

その「ワシントンハイツ」に生鮮食料品を卸していた地元の青果店の紀ノ国屋が、当施設内のセルフサービスによる食料品店スーパーマーケットに感銘を受け、53年北青山に日本第1号のスーパーをオープンした。

その一方、空襲によってほぼ焼け野原となった状態から復興してきた屋敷街も健在で、青山通りなどの商店は御用聞きに回って注文を取る商売が主流だったという。なお、47年には、赤坂区、芝区、麻布区が合併して港区となっている。

1964年の東京オリンピックに向けた東京大改造の一環として、青山通りが22メートルから40メートルの道幅へと倍近くに拡張され、都電を廃止。現在のような広い車道と、歩道を持つ通りとなった。

ピーコックが出店したのは、まさにこのタイミングで、斬新なスーパーをコアにした地域の小型百貨店の試みとして登場したので、大きなインパクトを与えた。この頃、青山は紀ノ国屋とピーコックを擁して、日本で最も進んだ流通業の聖地だった。

ピーコックストア跡

同じく64年、東京オリンピックの日本選手団の赤いジャケットをデザインした、石津謙介率いるVANヂャケットが青山に本社を構え、アイビーファッションを若者の間に大流行させた。VANはオフィス、ブティック、飲食店、ホールなどをどんどんとつくっていった。

三宅一生、コシノジュンコら、台頭してきた日本のファッションデザイナーたちも、青山、表参道、原宿を拠点とするようになり、現在のおしゃれな大人の街、青山が形成されたのである。

コシノジュンコが命名したと言われる「キラー通り」

だが、前回の東京オリンピックを契機につくられていった青山は終わった。南青山のピーコックの閉店と児童相談所の建設はそれを象徴する出来事だ。76年に建設され、同じく青山のランドマークと言われたファッションビルのはしり「青山ベルコモンズ」も既に解体されて、再開発が行われている。

2020年の東京オリンピックを機に、青山はもともとの土地のDNAである、高所得者が住む街へと緩やかに回帰していくだろう。

おしゃれな街・青山は、前回の東京オリンピックと高度成長が生み出した、たかだか50年ほどの物語で、それ以前の住宅街こそが青山の本来の姿だ。かと言っておしゃれの街・青山がなくなってしまうのではなく、高層マンションの住民の生活感に根ざした新しいスタイルへと変質していくのである。

長浜淳之介

プロフィール:長浜淳之介(ながはま・じゅんのすけ)

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兵庫県出身。同志社大学法学部卒業。業界紙記者、ビジネス雑誌編集者を経て、角川春樹事務所編集者より1997年にフリーとなる。ビジネス、IT、飲食、流通、歴史、街歩き、サブカルなど多彩な方面で、執筆、編集を行っている。共著に『図解ICタグビジネスのすべて』(日本能率協会マネジメントセンター)など。

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