自分では「正しい」と思っていてもまわりがそうは受け止めてくれないこと、よくあるケースですよね。そもそも「正しさ」とはどういうことなのでしょうか。今回の無料メルマガ『「二十代で身につけたい!」教育観と仕事術』では現役教師の松尾英明さんが、言葉の正しさに対する考察から、批判的思考を養うことの大切さを論じています。
「新しい」は何と読むのが「正しい」か
言い間違い。読み間違い。人間なら、当然ある。当然あるのだが、これを影響力のある人がやると、それが「正しい」ことになる。
言語の世界は、これが顕著に出る。
「着替える」。何と読むか。これは「きかえる」が本来の読み方としては正しい。教養ある年配の方だと「きかえる」と言うことが多い。
しかし、今は「きがえる」の方が主流である。だから「きかえましょう」と言うと違和感が出る。だから、学校教育であっても「きがえる」がよいことになっている。なぜかというと、それが「一般的」だから「正しい」ということである。多数の人がそう使い続けてきたから、「数は力」なので「正しく」なったといえる。
「スマホ」。何の略か。言わずもがな「スマートフォン」の略である。しかし「スマフォ」とは言わない。あくまで「スマホ」である。元の言葉云々は脇に置いて「言いやすいから」である。
2年生の新出漢字に「新」がある。訓読みに「新た」(あらた)や「新しい」(あたらしい)がある。この二つの読み方は、これを初めて読む2年生にとって「違和感」である。「新しい」は「新た」(あらた)からして、「あらたしい」ではないのか。これも、誤用が転じて正しくなった言葉の一つだという。「あらたしい」が本来の読み方らしい。しかし当然、テストでそう書いたら、「×」である。本来正しいけれど、「×」である(参考文献『違和感のすすめ』松尾貴史著 毎日新聞出版)。
世の中は、こういう仕組みである。その時代の多数の賛成を得たものは、とりあえず「正しい」ことになる。
好きか嫌いかは自分が決める。良いか悪いかは時代が決める。正しいか正しくないかは歴史が決める(師の野口芳宏先生から直接学んだ言葉である。福岡のとある方の言葉らしい。次のH.P「想片拾遺 折々の記」にも書いてある)。
「正しさ」というものも、危ういものである。本当の「正しさ」なんて移ろうものである。歴史の裁きを受ける中で変わるし、時の為政者によっても変わる。ヒトラーの時代におけるドイツ国内の「正しさ」とは何だったのかと、考えるまでもなくわかる。
時代によっても変わる。ある時代に正しかったものが、次の時代には正しくなくなることもある。逆もある。「天動説から地動説」も「アメリカ大陸発見」も全部そうである。みんなが「馬鹿じゃないの」と言ってたことが、正しかったとわかると、急に掌を返すこともある。
「正しさ」を考えすぎて執着(しゅうじゃく)すると、生きにくくなる。周りと調和しなくなるからである。しかしながら、「これは違うのではないか」と腹のどこかで違和感を持つことも、時には大切である。
偉いあの人の言っていることも、間違っているのではないか。あるいは、自分の考えの方こそが間違っているのではないか。そういう「批判的思考」(クリティカルシンキング)をもつことで、見えるものが変わる。
これからの時代を生きる子どもたちにも、何でも鵜呑みにせずに、自分の頭でまず考える力を育てるようにしたい。
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