ネット上ではすっかり一般名詞化していると言っても過言ではない「ネトウヨ」「パヨク」という言葉ですが、その定義を説明するとなるとなかなか難しいのではないでしょうか。今回の無料メルマガ『クリエイターへ【日刊デジタルクリエイターズ】』で編集長の柴田忠男さんが紹介しているのは、そんな言葉で呼ばれる人々を定義づけし、特徴をわかりやすく解説する一冊。本文中の「ネトウヨ、パヨクにならないためのルール」はなるほど納得、です。
偏屈BOOK案内:物江潤『ネトウヨとパヨク』
『ネトウヨとパヨク』
物江潤 著/新潮社
「ネトウヨ」はネット右翼、「パヨク」はその反対の立場の人を批判的にとらえた表現である。いずれも馬鹿にした軽量級な言葉だが、そう呼ばれる人はたいてい自分を正義の味方であると考えているので、日常会話はともかく、特定のテーマで穏やかな対話は殆ど成立しない。彼らの〈善意〉に反論しようものなら、血相を変えて罵詈雑言を浴びせてくる。カタカナ呼称のない時代もそうだった。
著者はネトウヨやパヨクと呼ばれる人びとを「対話不能な人」と広く定義づけ、彼らの実態や問題点を説明する。彼らはネット空間だけでなく、日本中に広く分布している。マスメディアの情報を極端に疑って眺める一方、ネット空間の情報は盲信するといった特徴を持った人々が多く出現し、一部はネトウヨと呼ばれる存在になっていったようだ。誰の発明か、両者とも絶妙な表現だ。
左翼をもじった「パヨク」は侮蔑度が高い。リベラルを自称しながら、言うことは支離滅裂な人々のことはもちろん、国民民主党や立憲民主党といった政党全体を指す場合もある。一見すると正反対に思える両者の活動は、驚くほど似ているという。「保守・リベラル」と「ネトウヨ・パヨク」をどのように区別すべきか。簡単に言えば、対話可能かどうかで分類してしまえばいいのだ。
対話可能であれば「ネトウヨ・パヨク」ではない。対話可能かどうかは、議論のルールを守れるかどうかで判定できる。著者は議論の3つのルールを示す。
- 自らの主張は仮説に過ぎないと確信すること
- 人の発言権を奪わないこと
- どれほど奇妙奇天烈に思える主張でも、理由付け(論拠)や事実でその良し悪しを判定すること
この大原則が、わたしたちがネトウヨ、パヨクにならないためのルールだ。議論のルールを守れない人の呼称は何でもいい。
現実世界では無力に近い対話不能な人たちが、ネット上では手がつけられない存在になっている。極端に乏しい理論しか持たない、断言のような主張がネット上で幾度となく反復されることで、人々の間にその主張が感染していく。説得力のない言葉だから説得できる、という奇っ怪な現象が起きている。論理がないため理論破綻しようがない。主張=信仰のようなものだから攻め手がない。
論理らしきものが備わったケースもあるが、事実と主張を強引に接続してしまう「無限接続の法則」が発動しているため、対話は成立しない。たとえば、
1.私たちの動画が削除された(事実)→2.愛国動画が削除されたのはおかしいので(理由付け)→3.YouTubeは反日である(主張)
といったものである。彼らは正義の心を胸に、無尽蔵のエネルギーで対話相手に反論をしかけてくる。ときにはありったけの憎しみを込めて。冷静に対応しようとすればするほど徒労感が蓄積される。結局、対話を試みた側が馬鹿らしくなって撤退するか、罵詈雑言の投入か、どちらかの道を辿る。憂慮すべきは、ネトウヨ、パヨクが強い影響力を持つネット空間に、中高生たちが触れる機会が増大していることだ。
この本では便宜上ネトウヨ、パヨクという表現を使うが、これは対話のできない人たちを指しているのであって、思想信条に対するレッテル貼りではない。
「ステレオタイプなネトウヨ、パヨク」
「眩暈がするような主張を繰り返すネットの人々」
「結論しかない主張は最強である」
「無尽蔵のエネルギーが対話相手を疲弊させる」
「それでも対話をする心構えを持たなくてはならない」
という章立て。君子(じゃないけど)危うきに近寄らず、と決意した。
編集長 柴田忠男
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