相次ぐ民放番組の「やらせ」問題。今回のTBSの2番組に対しては、番組制作サイドの倫理観のみに焦点をあて打ち切り発表まで追い込む同業他社の報道が目立ちましたが、問題の根源は他にあると指摘するのは、米国在住の作家・冷泉彰彦さん。冷泉さんは自身のメルマガ『冷泉彰彦のプリンストン通信』で、日本の民放テレビ局制作現場が、ネット配信事業に予算や人材を奪われ、瀕死の状態である点を憂慮すべきであるとしています。
TV業界は自分で自分のクビを絞めるな」
赤坂系列のTV番組2本『消えた天才』と『クレイジージャーニー』がひっそりと打ち切りになりました。ひっそりというのは実はちょっと違って、他のTV局などを含むメディアが結構騒いだ格好ではあります。
打ち切りの理由ですが、どちらも「ヤラセ」が露見しており、一つは「デジタル早送り」を使って「豪速球」の映像を捏造していたそうですし、もう一つは、あらかじめ捕獲しておいた生物を放流してもう一度「捕獲した」という絵を撮って「画期的」としていたのだそうです。悪質と言えば、確かに悪質です。
この種の「ヤラセ」ですが、アメリカの番組制作などでは、この種の内容のものは、「もう二歩ぐらい荒唐無稽に振る」と、「実はヤラセ」だという感じがハッキリとバレバレになっても、全体的に「フィクション的なムード」が被さるので、「100%リアルではない」という「お約束」に視聴者も共犯者として巻き込める、そんな考えでの演出手法があるわけです。
それこそ、往年のトランプがやっていた「アパレンティス」(経営者見習いのリアリティ・ショー)などは、そうした作りだったように思います。
ですが、その辺を狙うと日本の場合は、視聴者の目が肥えている一方で、シャレで流すような風流心もないので、芸風としての「ヤラセ」というのはご法度となっています。微妙なフォクション性を面白がってもらうとか、リアルではないとバレてもメッセージ性やキャラ立ちを軸に楽しんでもらうというのは、この種のドキュメンタリーや、リアリティ・ショーでは、日本の場合は「なし」なんでしょう。
では、どうして「100%リアル」という建前を押し通しながら、裏で「ヤラセ」をやってしまうのか?
視聴者をバカにしているとか、スポンサーさんはもっとバカにしているという批判もありますが、そういうことではないと思います。
「制作費がケチられている」
「現場の人材が疲弊している」
というだけのことです。ロケーション映像を材料に仕立てて行くバラエティの場合、まずはMCとひな壇芸人のギャラが予算の骨格になります(もっとも、それすらも十分に確保できなくなってきているのですが)。その残りということになる中で、ロケ映像の部分に割く予算は極めて限られます。
そうなると、限られた日程と予算の中でネタになる映像を作らなくてはならないわけで、いくらでも「ヤラセ」に走る動機は出てきてしまいます。加えて、現場人材が疲弊していたら、そのリスクは何倍にもなってしまうのです。
これは放送倫理の問題ではなく、放送番組制作のビジネスモデルの問題なのだと思います。つまり地上波というビジネスモデルが息絶え絶えになっている、それ以上でも以下でもないということです。
ただ、この話を一般視聴者さんに突きつけても、これはどうしようもないので、とにかく業界全体を再活性化するために、なんとか知恵を絞っていかねばなりません。現状は、ストリーミングの外資がジワジワと、この市場を侵食しつつあるわけですが、これに対する対抗もできていないわけです。
そんな中で、あんまり愉快でないのは、赤坂の不祥事に対して、渋谷も含めた他局が大々的に報道するということです。業界がお互いに談合して不祥事を「隠す」というのも、それはそれで良くないのですが、とにかく現場が困窮した中で起きた不祥事について、他局が「鬼の首を取ったよう」に報道するというのも、見ていてあんまり気持ちのいいものではありません。
さらに言えば、この種の不祥事で「番組倫理」どうのこうのと、自主言論統制の機関が「権威を持って」警察活動するというのも、なんとも言えない閉塞感を感じてしまうのです。
別に、「ヤラセ」を認めろというのではありません。多くの人口が多くの時間を消費するビジネスなのですから、地上波TVというビジネスが何とか、もう少しでも元気になって欲しい、そう考えると倫理がどうこうと叩くだけではダメだと思うのです。
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