脱北者として韓国国会議員に初当選した男性はなぜ脚を切断したか

 

わたしは数日間食いものを食ってなかったためめまいがして次の駅で降りようとしたとき気を失ってしまった。気が付くと線路の間に倒れていて左足の上を列車が通っていったあとだった。脚は切断され皮一枚でつながっている状態であり、息をつくたびに血がどっと流れた。そのときの恐ろしさと苦痛はことばでは言い表せない。脚をおさえて血を止めようとしたけど、左手も指の3本が切断していることに気が付いた。そこからも血が流れた。わたしは、父、母、妹を探して助けてくれと叫んだ。北朝鮮の冬の厳しさが傷口をさらに苦しめた。妹がわたしを見つけたんだけど襟巻きをとって傷口にかけるのがせいぜいで、わたしは大勢の人に助けられて病院につれていかれた。

 

病院でもずっと寒くてのどが渇いた。病院にあった手術の道具が記憶に残っている。輸血もできず麻酔もなかった。折れてつき出ている骨がのこぎりで切られる苦痛を今でも思い出す。手術用のメスが肉を切る音と気絶したことが思い出される。医者はびんたをはって「しっかりしろ」と言った。わたしが悲鳴をあげるたびに手術部屋の外にいた母が気絶して倒れてしまった。医者は薬も出せないままわたしを家にかえし、わたしたちは抗生物質を買うお金もなかった。手術のあとの日々が死ぬよりもつらく抗生物質も麻酔薬もなく毎晩苦痛のために泣いた。殺してくれとわめいては朝になって寝についたりもした。わたしは家族がやっとのことで持ってきてくれる食べ物を食べるときごとに罪悪感を感じた。

 

北朝鮮は依然として飢餓に苦しんでおり、党の幹部を除いてみんなが飢餓の状態だった。わたしの弟は市場のごみ箱でひろった麺を何本か集めてきて、洗ってわたしの口に入れてくれた。わたしは弟がもってきてくれてたべさせてくれた麺の味を忘れることができない。弟と妹は看病のためわたしが治るまで草を食べないといけなかったため、まともに背も大きくなれなかった。わたしは死ぬまでこの「感謝と申し訳なさ」を忘れることはできない。

 

夏になるとわたしの傷口の肉が壊死しはじめた。悪臭が出て骨の一部が皮をやぶって外に出る始末だった。事故後240日後の12月になってだんだん苦痛が静まってきた。わたしは未来がないと考え夢もなくなったと考えた。自殺も考えた。これ以上、家族に負担を与えてはだめだと考え2000年にわたしは中国のほうに松葉杖をついて脱出した。乞食をして何キロかのコメをもって帰ってきた。このとき中国ではわたしの家族よりいい生活をしているとわかった。

 

北に帰ってわたしは警察に捕まり、警察は「てめえのようなビョンシン(かたわもの)が中国に行って乞食をしたなんて共和国の恥だ」と言った。脚のないわたしが中国に行って乞食をしたのは国と首領様を侮辱した(イメージを壊した)というわけだ。わたしは持ってきたコメを取り上げられ拷問をうけた。わたしのようにとらえられたほかの人たちももっとひどい拷問をうけ、それがわたしにとっては大きな心の傷となった。

 

そんな不義がわたしをして北朝鮮を脱出させることにした。2006年松葉杖をついて弟といっしょに脱北した。別れるとき父と酒をかわしたのを思い出す。父は涙を見せ、わたしも先のわからない道(この先どうなるかわからない)なので共に抱いて泣いた。

 

わたしと弟は豆滿江(トゥマンガン)を北のほうに渡った。松葉杖を手にもって渡った時いきなり深みにはまったりもした。弟がわたしの頭をつかんでなんとか豆滿江を渡ることができた。弟には頭があがらない。松葉杖をついて中国、ラオス、ミヤンマーと、2,000キロの路程を越えてタイについた。路程の中で一番困難だったのはラオス国境をこえるときだった。松葉杖をついてこえるのが辛くて死にたいくらいで北朝鮮に生まれたことが恨まれ、そのときわたしのような苦痛を味わう人がいなくなるように死んでも努力すると祈り心に誓った。

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