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【第6回】世界の偉人たちが残した「人生最後の名セリフ」春日武彦✕穂村弘対談

もし今日が人生最後の日だとしたらあなたは家族や友人にどんな言葉を残しますか? それを考えることはすなわち、自分の死に対してどう備えるかにもつながってきます。「俺たちはどう死ぬか」をテーマにした春日武彦氏と穂村弘氏の対談シリーズ、今回は世界の偉人たちが残した「人生最後の言葉」から生と死を見つめ直します。「ここで滑ったら、もう目も当てられない」なんてことにならないよう、みなさんも一緒に考えてみては?

春日武彦✕穂村弘「俺たちはどう死ぬのか? 」

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棺桶に何を入れるか問題

穂村 ミステリ小説とかを読んでいると、よく「遺言書」が出てくるよね。それが殺人の動機に密接に関わってて、みたいな形でさ。

春日 大富豪が、隠し子とか、家族以外の優しくしてくれた人とかに「財産をすべて残す」みたいな遺言書を書いたばっかりに連続殺人事件が起こって……みたいなね。

穂村 我々は自分の「死」に直接的にタッチすることはできないわけだけど、遺言というのは、それを非常に限定的にではあるけども可能にする数少ない機会かもしれないね。遺す財産とかがなくても、少なくとも「棺桶に⚫︎⚫︎を入れて欲しい」くらいのことなら頼めるわけじゃない。

春日 うちの親父は、そういった類の遺言は残さなかったな。だから、火葬の時に葬儀屋から「何か入れますか」って聞かれて迷った。本かなぁ? とかは思ったんだけど、親父が棺桶に入れるほど好きな作家が分からなくて。だから愛用してた、書き込みとかもいっぱいある薄いコンサイスの英和辞書を入れたよ。でも、あとで考えてみたら、三途の川で鬼と英語で喋ったりするかよ! って気がついて(笑)。

穂村 お母さんの時は?

春日 母親の時は何も入れなかったなぁ。好きだったクリスティーのポケミスでも入れれば良かったかな。

穂村 僕も別に遺言とかはなかったけど、母の時にはアイスクリームを入れたよ。

春日 え、本物の?

穂村 うん。甘い物が好きだったんだけど、糖尿病だったからさ。もう好きなだけ食べていいよ、という気持ちを込めて。家族が決める場合は、そんな感じで生前好きだったものか、あるいは愛用してたステッキとかパイプとかさ。

春日 俺らだったら何になるんだろうね。

穂村 やっぱり眼鏡とかになっちゃうんじゃない?

春日 眼鏡は、遺骨や炉を損傷する恐れがあるから、火葬の時は入れちゃダメみたいだけどね。骨壺に入れるのはOK。

穂村 あ、そうなんだ。いずれにせよ眼鏡じゃ、ステッキやパイプに比べて非日常性が皆無だから、ちょっと寂しいよね(笑)。ないと困るものだけど、もはや顔の一部だから、それほど特別感がないというか。ほんとは、ないと困る以上のその人を感じさせるものがいいんだけど。物書きなら、自著みたいなパターンもあるのかな?

春日 うーん、自分の本かぁ。

穂村 ほら、三途の川で鬼に挨拶できるじゃん。「私、こういう者です」って。

春日 名刺代わりにね。でもさ、鬼に「こんなバチあたりなもん書きおって!」って地獄に連れてかれちゃったりして(笑)。

世界の偉人たちが残した人生最後の名セリフ

穂村 遺言書を作るのって、つまりは「死に備える」ということだよね。その延長で言うなら、人生最後のセリフを考えるのも、似たようなことなんじゃないかな。

春日 事切れる寸前に、この世に向かって最後に発する言葉ね。確かに「言葉を残す」という意味では、遺言みたいなところがあるかもしれない。俺は、イタリアの画家ジョルジョ・モランディ(1890〜1964年)の最後の言葉「黒とコバルトを用意しておくれ」が好きなんだよ。肺癌で死んだから辛かったとは思うんだけど、こんな格好いい言葉を吐いて死ねるってのは、やっぱり憧れる。

穂村 以前、イラストレーターの寺田克也さんと『課長』(ヒヨコ舎)という本を作ったことがあるんだけど、その時に、クロード・アヴリーヌの『人間最後の言葉』(ちくま文庫)という、いろんな人の今際の言葉を集めた本からセリフを引いたことがあって。

春日 死の名言集とでも言ったところかな。

穂村 在位期間フランス史上最長を誇るルイ14世(1638〜1715年)の「どうして、泣いたりなどするのか? 余が不死身だとでも思っていたのか?」とか、ローマ帝国の皇帝ヴェスパシアヌス(9〜79年)の「皇帝たるものは立って死ななくてはならない」とか、あるいはフォンテーヌ・マルテル夫人(生年不明 〜1730年)の「わたしのなぐさめは、いまこのとき、きっとどこかで、恋人たちが愛し合っている、ということです」とか、格好良いよね。

春日 最後のとか、死にそうな状態でよくこの長セリフを言えるよな(笑)。他に気の利いた、面白いのはある?

穂村 フランスの女優ラシェル(1820〜58年)の「日曜日に死ねて嬉しいわ。月曜日は憂鬱ですもの」とか。自分の命が尽きようとしているという、いわば現実的に最悪の状況を迎えていながら、それよりもずっと微細なものを疎んじてみせる事で「死」を超越する、みたいな誇り高さを感じる。あとは、フランスの作家フローベールと親交の深かった詩人・哲学者アルフレッド・ル・ポワトヴァン(1816〜48年)の「窓を閉めてくれ、外は美しすぎる」というのも好きだな。裏返しの愛の告白だね、世界への。

春日 でも、最後の言葉を言う時には、もう後がないわけじゃない? ここで滑ったら、もう目も当てられないよね。

穂村 何十年もかけて推敲するんじゃないの? その人にとって究極の言葉になるように。でも、周到に用意してたのに、苦しくって最後まで言い切れない……なんてこともありそう。

春日 言い間違えちゃったりね。あるいは、世の中のセンスが変わってしまい、時代錯誤なものになり下がってしまうとかさ。

穂村 長い間温め過ぎたばっかりに。これもうポリティカル・コレクトネス的にNG、とかね。「それを言っちゃあお終いよ」かもしれないけど、死の瞬間に口を突いて出た言葉が整然としたものである可能性は、現実には低そうだよね。だって、死にそうなんだもん。だから、多かれ少なかれフィクショナルなものにならざるを得ない。それに、最後の言葉を言い切って都合よくガクってなることもあまりないと思うんだよね。

春日 だから医者も大変なの。「もう亡くなるな」と思って患者の家族を呼んだものの、心臓がやたら強くて、鼓動だけ止まらない人とかいるからね。家族も困惑するし、こっちも格好つかないしさ。呼吸も、止まってまた復活するなんてケースも珍しくないのよ。不謹慎な話だけど、「お力添えできませんでした」とか言った瞬間に急に生き返ったりするなんて、もうブラックジョークだよ。

穂村 「なーんちゃって!」とか言えないもんねぇ。大抵の人は、目の前で人が死ぬところなんてほとんど見たことがない。だから、テレビドラマとかで、家族が集まったタイミングでガクッと事切れる、みたいなちょうどいい塩梅のをイメージするわけだけど、現実はそう上手くいかないわけね。

三島由紀夫が残した「辞世の句」

春日 人生最後の言葉といえば、穂村さんの専門である短歌の世界では、いわゆる「辞世の句」というのがあるよね。

穂村 生前に作る「最後の言葉」という意味では、確かに似たところがあるね。でも、辞世って、どうしても自意識の塊になってしまうから、「作品」として見るのはすごく難しいのよ。例えば、三島由紀夫(1925~70年)なんかは、その典型だよね。彼は、自らの愛国心の発露から東京市ヶ谷の陸上自衛隊東部方面総監部に乗り込んで自決したわけだけど、残した歌が〈散るをいとふ世にも人にもさきがけて散るこそ花と吹く小夜嵐〉(松村雄二『辞世の歌(コレクション日本歌人選)』収録。笠間書院刊)でさ。

春日 いかにも、だよね。

穂村 確かに、思想みたいなものは伝わってくるんだけど、「作品」として鑑賞するには微妙すぎるというか……。だから、たまたま死の少し前に詠まれた歌とか、結果的に絶筆になった作品とかの方が、見るべきものが多い気がするんだよね。例えば、歌人の河野裕子(1946〜2010年)が、自身の死が近い時期に詠んだ歌に〈八月に私は死ぬのか朝夕のわかちもわかぬ蝉の声降る〉(青磁社『歌集 蝉声』収録)というのがあって。「そうか、私は8月に死ぬのか」という実感と、死を前にした時に感じる怖さみたいなものが、リアルに伝わってくる歌だと思う。蝉には一度きりの、そして自分には最後の8月。

春日 これが最後の歌になったの?

穂村 実際に絶筆になったのは、〈手をのべてあなたとあなたに触れたきに息が足りないこの世の息が〉(同上)かな。これは、「あなた」に手を触れたいけれど、命が尽きようとしている私にはもうその力が残っていない、という歌だよね。注目したいのは、命が切れかかっているとはいえ、この歌が完全に「生の側」から詠われているということ。ギリギリの生に留まりながら、自分にはもう命の残量がなくてしたいことができない、ということを詠っている。

春日 じゃあ逆に、死の側から人生の最期を詠んだ歌人もいたの?

穂村 うん。興味深いのが、そっちの方が怖くなかったりするんだよね。例えば、これも結果的に絶筆になった歌なんだけど、窪田空穂(1877〜1967年)が死の4日前に詠んだ〈四月七日午後の日広くまぶしかりゆれゆく如くゆれ来る如し〉(春秋社『清明の節 窪田空穂最終歌集』収録)。「4月7日の日の光が眩しい」と言っているだけで、内容的にはシンプル極まりないんだけど、「ゆれゆく如くゆれ来る如し」というフレーズなんかは、絶筆になったと思うとすごく「死のゾーン」に入っている感じがするよね。あの世の側から、こっち側にいる人たちに向かって「死の入り口ってこんな感じだよ」と言語化して伝えてくれている感じがする。

春日 確かに怖さはないね。むしろ陽だまりの中でぼーっとしている感じすらあって、のほほんとしてるというか。

穂村 うん、自然なお爺ちゃん感がある。これくらい滑らかに「向こう側」に行けたらいいよね。河野さんの「息が足りないこの世の息が」とはかなり違う。まあ、これは亡くなった年齢がぜんぜん違うということもあると思うけど。河野さんが亡くなったのは64歳で、空穂は90歳くらいだから。

春日 生への未練という意味では、だいぶ違うだろうね。

死が近づくことで、かえって整う人もいるかもしれない

春日 「死に備える」というので思い出すのが、SF作家マックス・エールリッヒ(1909〜83年)の『巨眼』(清水俊二訳、早川書房)という小説でさ。パルマ山の天文台の天文台長が、とある惑星がだんだん地球に近づいてきてることに気づくんだよね。計算したらね、2年と数ヶ月後のクリスマスに地球に激突するというところまで分かる。で、それを発表すると、当然のことながら世界中パニックになるんだけど、でもそれは最初だけなんだよね。衝突まであと1年くらいになると、逆に腹が据わってきて、世界中がなんか平和になってきちゃうのよ。政治家なんかも、私利私欲ではなく本当に人に尽くしたくなっちゃって、みんな儲けるためじゃなくて、充実感とか社会秩序のために仕事をするようになるの。世界の終わりを前にして、ある意味ユートピアが実現しちゃうわけ。世界連邦ができたりとかさ。でも、着実に惑星は地球に近づいて来る。

穂村 で、どうなっちゃうの?

春日 ついにクリスマスの日が来るわけ。皆1人じゃちょっとキツイからって、大体教会とか公園に集まったりして、いよいよだって惑星を見てるんだけど、ついに「来た!」と思ったら、あれっ? ってなるのよ。

穂村 ん??

春日 結局、衝突すると言われた時間から1時間くらい経過して、「……なんか遠ざかってんじゃねえの?」みたいになって。つまり、ぶつからなかった、という話なの。天文台長が、ここは嘘で全人類を揺さぶってやらないと世の中は良くなるまいと考えていたのでした、って(笑)。

穂村 その後の世界は書かれてないの? ニアミスした後、平和に暮らしていた人たちはどうなったの?

春日 きっと上手くいくでしょう、みたいな終わり方だった。絶対そんなわけはないし、また元のいがみ合っていた世界に戻るに違いないんだけどね。俺、この小説を中1の時に初めて読んで、感心したのよ。いやー作家ってすげぇことを考えるな、って。で、机の上に置いといたら、それを母親が読んだみたいでさ。

穂村 やっぱり「すごい!」って?

春日 いや、すっげえボロクソでさ。何これ、バカじゃないの? って反応で。

穂村 (苦笑)。

春日 当時は、何てシビアな人なんだろうと思ったけど、この前たまたま読み返してみたら、出来に関しては「母親に1票」って思った(笑)。でも、死が近づくことで、かえって整う人もいるのかもしれないという可能性には魅力を感じるな。俺はそこに、「死」を悟ることで自暴自棄になるんじゃなくて、むしろ良い方向に行くことができるかもしれないという、いわば希望のイメージを見ているのかもしれないね。

(第7回に続く)

春日武彦✕穂村弘対談
第1回:俺たちはどう死ぬのか?春日武彦✕穂村弘が語る「ニンゲンの晩年」論
第2回:「あ、俺死ぬかも」と思った経験ある? 春日武彦✕穂村弘対談
第3回:こんな死に方はいやだ…有名人の意外な「最期」春日武彦✕穂村弘対談
第4回:死ぬくらいなら逃げてもいい。春日武彦✕穂村弘が語る「逃げ癖」への疑念
第5回:俺たちは死を前に後悔するか?春日武彦✕穂村弘「お試しがあればいいのに」

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春日武彦(かすが・たけひこ)
1951年生。産婦人科医を経て精神科医に。現在も臨床に携わりながら執筆活動を続ける。著書に『幸福論』(講談社現代新書)、『精神科医は腹の底で何を考えているか』(幻冬舎)、『無意味なものと不気味なもの』(文藝春秋)、『鬱屈精神科医、占いにすがる』(太田出版)、『私家版 精神医学事典』(河出書房新社)、『老いへの不安』(中公文庫)、『様子を見ましょう、死が訪れるまで』(幻冬舎)、『猫と偶然』(作品社)など多数。
穂村弘(ほむら・ひろし)
1962年北海道生まれ。歌人。90年、『シンジケート』でデビュー。現代短歌を代表する歌人として、エッセイや評論、絵本など幅広く活躍。『短歌の友人』で第19回伊藤整文学賞、連作「楽しい一日」で第44回短歌研究賞、『鳥肌が』で第33回講談社エッセイ賞、『水中翼船炎上中』で第23回若山牧水賞を受賞。歌集に『ラインマーカーズ』『手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)』、エッセイに『世界音痴』『現実入門』『絶叫委員会』など多数。
ニコ・ニコルソン
宮城県出身。マンガ家。2008年『上京さん』(ソニー・マガジンズ)でデビュー。『ナガサレール イエタテール』(第16回文化庁メディア芸術祭マンガ部門審査委員会推薦作品)、『でんぐばんぐ』(以上、太田出版)、『わたしのお婆ちゃん』(講談社)、『婆ボケはじめ、犬を飼う』(ぶんか社)、『根本敬ゲルニカ計画』(美術出版社)、『アルキメデスのお風呂』(KADOKAWA)、『マンガ 認知症』 (佐藤眞一との共著・ちくま新書) など多数。

漫画&イラストレーション:ニコ・ニコルソン
構成:辻本力
編集:穂原俊二
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