考えてみれば、われわれは1人では何もできない。私という1人は生きて身体行為を行う限り、「われわれ」によって支えられており、「できない」から「われわれ」に支えられているのが人間の本質、つまり人間の「かけがえなさ」の本質は、「できること」(capability)ではなく「できないこと」(incapability)であり、支えられること、である。
これまでの私たちの西洋哲学の代表的な人間観である機能主義的人間観からの脱却を意味する。これは人間を機能束(知性・感情・意志等)とみなし、「できるもの」前提に考えるもので、知性ではデカルトやカント、感情ではヒュームやハイデガー、意志ではショーペンハウアー、ニーチェが代表例だから、今まで基準としてきた価値観もリセットしなければならない苦悩を伴う。ここから私たちは新しい時代に希望を持って新しい価値を見出さなければならず、ここで活きてくるのが「希望」という学問だ。
希望学を提唱する玄田有史・東京大学教授は、希望とは「苦しさを乗り越えるプロセス」と話す。そこにはいろいろな取組があって笑えるような「おかしみ」が必要と説く。おかしみの反対を「かなしみ」だとすれば、希望とはおかしみの中に裏側の悲しさを乗り越えることだとも言えるかもしれない。
加えて、人間関係のうち強い絆で結ばれた「ストロング・タイ」と緩い関係である「ウィーク・タイ」のどちらも重要とする。特にウィーク・タイは緩い分、関係性が客観的なので、質問することで新しい発見ができる可能性が高い、という。さらに行動としてエンジニアリングとブリコラージュの2つも重要で、完璧なものを作り上げるのが前者だとすれば、後者は「今あるものでやりくりする」こと。
こう考えると、希望とは笑い合いながら、お互いに質問などしながらコミュニケーションをし、今ある資源で学び、そして遊ぼうとする「みんなの大学校みたいじゃないか」と思えてくる。希望の中にある学校だから、それは当然かもしれないが、まだ始まったばかり。こんな時代だからこそ胸張って希望が語り合える学びを進めていきたい。
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