知って納得。国民年金の加入義務化を喜んだ日本の記憶と岸信介の悲願

 

そんな事が重なって、たまたま偶然にも国民皆保険と国民皆年金が昭和36年4月に達成された。同時達成は意図されていたものではなかったが、たまたま同時になった。同昭和36年から池田勇人内閣の10年で所得倍増計画が始まる。社会保障が経済の発展を支える事になる。

でも記事の冒頭で書いたように、岸信介内閣の時の新安保条約成立の反対闘争エネルギーが国民年金反対運動へ向かってしまい、昭和35年10月からの国民年金手帳配布の頃に「国民年金保険料なんて支払うなー!手帳は返してしまえー!」っていう運動が総選挙に負けた野党を中心として全国に広まってしまった。とりあえずの理由は国民年金は年金額が低く、保険料が高い、途中で死んだら支払い損という事で悪評が広まってしまった。

国民年金は国民が望んだものですが、一旦保険料の徴収が始まろうとすると安保闘争に負けた野党が腹いせで国民年金反対運動に転じてしまった。国民年金自体が反対されたというか、安保闘争のエネルギーのせいで国民年金反対の方向に向いてしまった。国民年金が次の反対運動のターゲットにされてしまったというか。なんだかよくわかんないけど反対反対っていう運動が盛り上がっていった。その徴収する保険料が戦費調達のために使われるというようにも捉えられてしまって、誤解と共に都市部を中心に反対運動が全国に広まっていった。

国民年金への理解がなかなか浸透しない中、国民年金強制加入者は1,488万人で、任意加入者は220万人という当初の目的だった80%以上の加入が達成されたからまあまあの走り出しだった。その後、昭和40年に強制と任意加入合わせて22,000万人を達成。

しかし、産業の変化で農業者や自営業者がどんどん減っていき、民間企業に雇用される雇用者(厚生年金)が急増していった。これにより国民年金保険料を支払う人が少なくなっていって、国民年金の財政が危機的になっていった。昭和60年の改正が行われるまでは国民年金、厚生年金、共済年金というのは別々の制度だった。

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