コロナ禍でも変わらぬ日本と台湾の絆。「行ったつもりツアー」の相思相愛

shutterstock_691627288
 

コロナ禍で移動が制限されていても、日台の絆の強さに変わりはないようです。今回のメルマガ『黄文雄の「日本人に教えたい本当の歴史、中国・韓国の真実」』では台湾出身の評論家・黄文雄さんが、日台それぞれが先方に思いを馳せ企画されたユニークなツアーを紹介。そこには、まさに両国の相思相愛がなせるたくさんの工夫が散りばめられていました。

※本記事は有料メルマガ『黄文雄の「日本人に教えたい本当の歴史、中国・韓国の真実」』2021年4月18日号の一部抜粋です。ご興味をお持ちの方はぜひこの機会に初月無料のお試し購読をどうぞ。

プロフィール:黄文雄こう・ぶんゆう
1938年、台湾生まれ。1964年来日。早稲田大学商学部卒業、明治大学大学院修士課程修了。『中国の没落』(台湾・前衛出版社)が大反響を呼び、評論家活動へ。著書に17万部のベストセラーとなった『日本人はなぜ中国人、韓国人とこれほどまで違うのか』(徳間書店)など多数。

【台湾】日台の絆の深さがわかる「行ったつもりツアー」の相思相愛

「スターフライヤーで行く? 台湾行ったつもりツアー」

福岡県の田川市が、台湾との絆を大切にしたツアーを企画しているので、応援を兼ねてご紹介させて頂きます。その名も、「台湾行ったつもりツアー」。一体どのようなツアーなのしょうね。

詳しいスケジュールは専用サイトをご覧いただくとして、出発は福岡県と近郊何カ所かに分かれています。設定は、あくまでも「台湾に行く」つもりなので、飛行機に乗らないといけません。そこで、北九州空港にあるスターフライヤーの訓練施設を借りて、海外へのバーチャルフライトを体験します。

そして、ここからが田川市の本領発揮です。田川市はと台湾には、どのような絆があるのでしょうか。「炭鉱」です。田川市の広報誌『広報たがわ(平成28年12月1日号)』に、その詳細が書かれているので、以下、一部を引用しましょう。

明治28年から日本統治下に置かれた台湾には、多くの日本人が移住してさまざまな事業を展開。石炭産業もそのひとつで、日本の技術者たちによって台湾の炭坑開発は本格化しました。そして大正7年に、日本の三井炭山と台湾の顔家が共同出資して設立された「基隆炭坑」は、その後台湾の鉱区の半分を取得して、台湾第一の炭坑へと成長を遂げます。

 

「わざわざ台湾に行かなくても…本人の希望?ならばよかろう」。これは、日本鉱業界の重鎮、三井財閥の団琢磨が、三井田川鉱業所で働く小林寛の台湾赴任を聞いて、惜しみながら発した言葉です。

 

小林は、三井鉱山の技術者で、明治38年~43年に現在の伊田で、のちに筑豊随一の大炭鉱となる「伊田竪坑」の開削を担当。その大きな功績は、当時の竪坑櫓と煉瓦煙突が保存されている石炭記念公園で、現在でも目にすることができます。

 

その確かな腕が見込まれた小林は、同じ三井系の炭坑である基隆炭坑の現場責任者として白羽の矢が立ち、大正9年に田川から台湾へ赴任しました。しかし、台湾の炭層は1m以下の薄層がほとんどを占め、地質構造も複雑でした。伊田竪坑とは規模や採炭方法などで勝手が違う環境の中でも、小林は、共同経営者である顔家の反発を押して田川で培った技術と経験を惜しみなく発揮していきます。

 

基隆炭坑の発展に大きく貢献した小林は、のちに基隆炭坑の取締役兼所長(抗長)を務め、同炭鉱を最後に、昭和3年に炭坑業から引退しました。

台湾と日本 石炭がつないだ技術者たちの足跡

ここにあるように、基隆炭坑に貢献した小林寛は筑豊の人でした。筑豊も、かつては炭坑の町でした。福岡県飯塚市には、当時の炭鉱で使われていた、トロッコを巻き上げる機械の台座「巻き上げ機台座」などが見学できる場所があります。

print
いま読まれてます

  • コロナ禍でも変わらぬ日本と台湾の絆。「行ったつもりツアー」の相思相愛
    この記事が気に入ったら
    いいね!しよう
    MAG2 NEWSの最新情報をお届け