親の「困ったなあ」という言葉が子どもの心に与える大ダメージとは

 

結局、学級経営における指導力云々というのは、このあたりの折り合いのつけ方にあるといえる。上手に折り合いをつけられる場合もあれば、そうでない時もあるというのが現実である。

「自己責任」も程度があり、相手の求める全てに応じるということではない。求められたとて、がんばってもできないことなど、責任を負えない部分があって当然である。

極端な話、足が不自由な人に「走れないのはあなたの責任だ。なぜ私の言うように走れないのだ」というような冷徹で非常識な人はまずいない。しかし、直接目に見えない部分だと気付かず、そういう無茶を言ってしまっていることは多々ある。

職場という見方で置き換えてもそうである。どうしても残業続きになってしまって困っている「私」がいるとする。しかしそれを職場のせいにするのは違う。職場が私に「残業しろ」と命令して困らせている訳ではない。残業せざるを得なくて困っているのは、あくまで私である。

逆もいえる。例えば「残業してもらっては困る」と雇い主の側が言う。しかし「残業して雇い主の私を困らせているのはあなたの責任だ」と従業員に言われても、それは違う。命令権限があるのならきっぱりと帰らせるべきだし、従業員が残業しないような手だてを打つのが雇い主の責務である。

要するに、自分の思い通りにいかない点を、お互い人のせいにしてはいけないということである。困っているなら、まず自分で自分をどうにかするよう工夫することである。お互いに事情がある。自分すら自分の思い通りにいかないのに、相手が自分の思うようにいくはずもない。

誤った夫婦の関係にもいえる。DV夫が「俺が暴力をふるうのはお前のせいなんだ」と泣くことがあるという。それで、妻の側は「この人が暴力をふるうのは私のせいなんだ」と自分を責める。

…傍から見れば全く非論理的なおかしな話だが、本人たちは本当にそうだと思い込んでいる。「私の怒り」=「あなたの責任」なのである。

そしてこれが、親子間でも起きるというのは、夫婦間以上に捨て置くことのできない事実である。子どもは、無力である。

まとめると、「困る」も「怒る」も、自分と対象とを結びつけないことである。それぞれの立場から見た、別個の話である。

内容的にはのほほんとしたエッセイなのだが、本質的なことに気付かされた次第である。

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