次は沖縄か?「古来より中国の一部」と認定された土地が迎える悲惨な未来

 

それはともかく、このシムラ条約以降、チベットの近代化を進めます。1917年のロシア革命によりモンゴルなどが共産化していくことに対抗して、チベットのイギリス化を狙っていました。一方、中国では中華民国が内紛を繰り返し、軍閥割拠の時代を迎えたことでチベットに対してほとんど干渉できませんでした。

そして1933年にダライ・ラマ13世が死去、現在のダライ・ラマ14世が即位します。このとき中華民国は弔問使節をチベットに送り、そのまま駐蔵弁事官としてチベットに駐留させます。これが後に、中華人民共和国のチベット侵略のきっかけとなりました。

日本の敗戦で第2次世界大戦が終結すると、チベットは戦勝国である中華民国に祝賀使節を派遣、蒋介石に独立を守り続けたいというメッセージを送っています。また、イギリスも同じ連合国である中華民国に配慮するようになっていました。1947年、イギリスの植民地だったインドが独立します。これにより中華民国の対抗勢力だったイギリスの影響力が減退します。

1949年には国共内戦で中国共産党が中華民国に勝利します。するとチベット政府は巻き込まれることを恐れ、すべての中国人を国外追放します。これに対して、中国共産党はチベット駐留を要求し、1950年10月に人民解放軍がチベットに侵攻します。チベットは国際社会に中国の非道を訴えますが、朝鮮戦争が勃発したことへの対応に忙殺される国連からはほとんど無視されます。そして1951年にチベット全土が制圧されてしまったのです。

ダライ・ラマ14世は使者を北京に派遣して人民解放軍の撤退を求めましたが、中国は使節団を脅して、17カ条協定を結ばせます。これは中国によるチベット併合を定めたものであり、これは「祖国への復帰」「チベット解放」だと位置づけるものでした。

そして、チベット全土を中国の地方とし、チベット政府は西藏の統治を担う「西藏地方政府」と定めました。加えて、民族自治やダライ・ラマの地位や権限の保障、信仰や文化・風習の尊重、寺院の保護、人民解放軍による蛮行の禁止などが盛り込まれていました。

このとき、中国側は偽造したチベットの国璽をつかって署名させています。加えて、チベットの使節団には、中国の牢獄で思想教育を受け、中国の意のままに動く人物も含まれていたため、結局は中国側の思惑通りに署名させることになったわけです。

ところが、17カ条協定に定められている、チベットの自治や軍による蛮行の禁止などは、まったく守られませんでした。チベット全土に7,000以上あった寺院は次々と破壊され、僧侶の9割が処刑や亡命、または還俗せざるをえませんでした。なかには「法力があるなら飛んでみろ」と、高所から突き落とされた僧もいました。

加えて、1954年には22万2,000人の人民解放軍がチベットに駐留したことで、食糧不足やインフレが急速に進みました。また、漢族の大量入植を進め、遊牧地を取り上げるなどしたことで、チベット人の不満が爆発したことで各地で反乱が起こるようになりました。

1956年にはアムド、カム地方で中国に対するチベット人の蜂起が起こり、チベット動乱が始まりました。このとき人民解放軍は2万人を殲滅したとしています。1958年には甘粛から青海にかけてのチベット人が反乱を起こしましたが、これに対して人民解放軍は11万人を虐殺して鎮圧したとされています。

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