故・高島忠夫が生前に語った両親。「イエーイ!」な人生を送ったのは父だった

 

サンドウィッチのハムみたいな人生を送った親父…。

その後、関西学院大に進んでもジャズを続けていたけど、僕の中でジャズではモノにならないだろうと、薄々わかってきた頃だった。僕も親父に似て、いい加減なとこもある。ある日、バンド仲間が集まるお汁粉屋のお姉ちゃんに、「ターぽん、あんたええ男やさかい、あんたが映画俳優にならなかったら誰がなるねん」そう言われてさ。僕はお汁粉屋の便所の鏡で、あらためて自分の顔をながめたんや。よくよく見るとピカーと光ったいい男が、鏡に映ってるじゃないの。

新東宝の第一期ニューフェイスに受かり、昭和26年に上京して、しばらくは月給が5千円だったから、実家から仕送りしてもらっていた。親父やオフクロも根が楽観的な人やから、あの頃はたぶん、息子がどのくらい偉うなってくれるか、楽しみにしてたんやないかな。

僕が親父たちにガンガン仕送りできるようになったのは、俳優をはじめて10年くらいたった頃やった。親父としてはおじいさんにもらった土地を全部売って、いよいよお金に困ってきた頃に、僕が上納金を差し出せるようになったわけや。振り返ると、親父はほんと、サンドウィッチのハムみたいな人生だなぁ。人生の前半はおじいさんからもらったサンドウィッチの上のパンに守られ、後半は下のパンのところを息子が差し出して。

「私、高島忠夫の父でんねん」万事、派手好きな親父はあちこちでそう言い回っていた。親父は僕より今でいうイケメンだ。「あっ、高島さんのお父さんですか」そんな話が盛り上がって、一度、映画出演の話が舞い込んできたことがあった。「わしが映画に出たらな、ターぼんどころやない、日本中で知らない人がいないくらい有名になるぞ!」なんて夢を見ていたけど結局、その話は流れてしまった。親父、残念だったね。

それに引きかえ、マジメなオフクロは取り越し苦労ばかりしていた。「忠夫は台詞を間違えるんじゃないか」、歌を唄えば、「歌詞を間違えるんやないか」目立つことが嫌いなオフクロは、僕が俳優として知られるようになってからは、一緒に歩くことも控えていた。

親父とオフクロの金婚式の時も、有馬温泉の高級旅館で、親戚を呼んで派手にパーとやろうと思っていたんや。ところが、2日ぐらい前になって、「やっぱりイヤや」オフクロはそう言い出した。「旅館で周りの人に、『あれが高島忠夫の母親か』言われるのがイヤや」と。「なにいうとるんや、ターぼんがわしたちのために、めでたい金婚式を用意してくれたのに」と、派手好きの親父はオフクロに向かって怒っていた。

昭和のスター、有名文化人たちが自分の親について語った貴重なエピソードが満載のメルマガ詳細はコチラ

 

print
いま読まれてます

  • 故・高島忠夫が生前に語った両親。「イエーイ!」な人生を送ったのは父だった
    この記事が気に入ったら
    いいね!しよう
    MAG2 NEWSの最新情報をお届け