故・高島忠夫が生前に語った両親。「イエーイ!」な人生を送ったのは父だった

 

気ままに生きてる人やから、子供の扱いも気まぐれや。

仕事はしない、外に女の人を作ってオフクロを泣かせる、でも、僕がそんな親父に悪い感情を抱かなかった。それは、──親父のように一生を送れたら気楽でいいな。そんな思いが、僕の中にあったからで。

オフクロに似たのか、親父と違いマジメな僕は10日も仕事を休んでいるともうダメや。──こんな生活していて、ええんかいな……。そんな思いが湧き上がってくるのだが、親父と来た日には若い頃からずっと暇だったのやから。そら遊びの人生や。

ベベベーンと親父は琵琶も弾けた。尺八もうまかった。将棋も碁も好きで、歌もうまかったよ。人付き合いもよくて、「信夫はんとおったら、ホンマ楽しいわ」と、友だちから言われる人だった。よく友だちを家に呼んで宴会を開いていた。そんな時は僕がよく酒の肴にされたんや。

「忠夫!学校の試験の問題集を持ってこい!」酒の席に呼ばれ、親父にそう言われて。「この問題の答えをいうてみい」と。正解すると、「ほーら、うちの忠夫はホンマにかしこおまんねん」お客さんの前で自慢して。「まあ一杯飲め」って、中学生ぐらいになると親父たちの宴会の席でお酒を飲まされた。ところが出された問題を間違えると、「こいつ、ホンマにアホでんねん」とか、ボロクソに言われたもんや。気ままに生きてる人やから、子供の扱いも気まぐれや。あれは辛かったなぁ。

戦後は友だちが持っていたギターが欲しくて。オフクロは台所でいつも歌を口ずさんでいるような人やから、オフクロにねだるとギターを買ってやろうと。戦後は土地をずいぶん手放すことになったが、それでも借家の家賃は親父が勝手に持って行ってしまうから。ギターを手に入れるために、オフクロは嫁入りの時に持ってきた着物を都合してくれて。

ギターを手にした僕はすぐにジャズに夢中になった。入学した神戸一中が戦後に新制の県立神戸高校に替わると、進駐軍のキャンプを回ってジャズの演奏に忙しかった僕は、先生に呼び出された。「学校にも来んでジャズやってる生徒など、新制の神戸高校の名折れだ!」

先生のその言い方がシャクにさわった。「ほな、辞めまっさ、僕はジャズで食っていくんやから」と、僕は学校を中退して。あの時はオフクロも、僕にギターをあたえたことを後悔していた。「あー、忠夫を不良にしてしもうた。どないしょ……」ずいぶん悩んでいた様子だった。琵琶や尺八に凝っていた、親父みたい人間になったらどうしようと思ったの違うかな。

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