そんな太源雪斎は、今川義元の嫡子の氏真の教育係を勤めましたが、このとき人質となっていた松平竹千代(後の家康)も、氏真のいわば学友として、一緒に太源雪斎から教育を受けることになります。後年、60歳を過ぎた家康は、都にあって異端視されていた弱冠22歳の若い儒者の林羅山に、徳川家の家臣たち全員の教育を委ねていますが、そうした行動も、若き日の太源雪斎の教えがもとになっていたといえようかと思います。
そして太源雪斎が死ぬと、今川義元は、自分で軍を率いて信長と対峙しなければならなくなりました。太源雪斎が生きていれば、それは太源雪斎が行うことでした。代わりに侵攻した今川義元は、緒戦の勝利に奢り、桶狭間で宴に興じていたところを信長に急襲されて殺害されています。
太源雪斎を失った今川家は、義元の死後、今川氏真が後を継ぎますが、それも長続きせず、結局国を滅ぼしています。逆に言えば、それだけ太源雪斎が、今川家にとって大きな存在であったということです。
プロデューサーは、表舞台に立って歌を歌う歌手ではありません。若い女の子でもありません。けれど、どんなに才能があっても、プロデューサーに恵まれなければ、成功はおぼつきません。同様に、たいした才能に恵まれなくても、名プロデューサーに恵まれれば、大成功を治めることができます。
もちろん歴史の中には、信長や家康のように、本人自身がものすごい実力を発揮できた人物もいます。けれど、多くはプロデューサーあっての成功だということを、私たちは学ぶ必要があります。
日本をかっこよく!!
この記事の著者・小名木善行さんのメルマガ
image by: Shutterstock.com