そんな茶番が展開された一方で、自称保守言論界やネトウヨの間では「国葬」によって、安倍に対する個人崇拝が凄まじいまでに強化されるという現象が起きている。
式典で流された追悼ビデオは100%肯定的な政策評価に彩られ、「モリ・カケ・桜」のような物議をかもした話題は、当然のごとく一切なかったことにされていた。
そして菅は弔辞で「総理、あなたの判断はいつも正しかった」とまで断言し、安倍の政策、行動の全てを肯定したのである。
決して間違わなかった、無謬の安倍晋三、完全無欠の安倍晋三元首相、マンセー、マンセー!というわけだ。
金正日の国葬と変わらないくらいの個人崇拝である。これでは全く北朝鮮と同じ、権威主義の国になってしまう。
いくら法的に問題がなかったとしても、やはりこんな奇妙な儀式が、税金で行われるようなことを許していていいはずがない。
わざわざ国費を使って、日本の右派が完全に権威主義・個人崇拝になってしまったおぞましい様子を大々的にさらしたのが、安倍の「国葬」である。
そもそもアベノミクスなんか全然成功したとは思えないし、戦後レジームからの脱却なんか何もできなかったとしか思えないし、安倍が行った政策のひとつひとつに疑問がありすぎる。
そんな安倍を個人崇拝する意味が分からないし、やってよいこととも到底思えない。
結局、安倍晋三の「国葬」は「安倍マンセー派の自己満足セレモニー」でしかなかった。
もう二度と「国葬」なんかやらなくていい。やる必要がない。
「国葬」だろうが「国葬儀」だろうが、そのための法を作る必要もない。
日本は「権威(天皇陛下)」と「権力(総理大臣)」が分立して、天皇陛下の方が地位が上とはっきりしている。
したがって、日本には「大喪の礼」だけでいい!
たかが「権力者」を「権威」として持ち上げる必要などないのだ!(『小林よしのりライジング』2022年10月4日号より一部抜粋・文中敬称略)
この記事の著者・小林よしのりさんのメルマガ
image by: YuichiMori / Shutterstock.com