この思想の最基底にあるのは、逆説的に聞こえるかもしれないが、他者を助けるための行動は善行だという素朴な利他主義である。農耕を始める前、バンドと言われる50人~100人くらいの小集団で暮らしていた人類は、集団内の他者を助けることを厭わなかったろう。逆に、自分が窮地の時は助けてもらうことも多かったろう。これを生態学の用語で互恵的利他主義というが、互恵的利他主義こそ小集団が生き残るために重要な行動様式であったはずだ。
しかし当然、病気になったり、怪我をしたり、老いたりして、他者を助けられないどころか、助けてもらわなければ生きていけない人も出てくる。顔見知りの小集団では、いずれ自分が世話になることもあるだろうとか、昔良くしてもらったとかの理由で、役に立たない人を見捨てることは余りないだろう。「情けは他者のためならず」というわけである。この諺は最近の新自由主義的な風潮では誤解されることも多く、「情けをかけると、かけられた人が努力をしなくなるので、本人のためにならない」と解している人がいるが、本来の意味は「情けは自分のためである」ということで、互恵的利他主義の話なのだ。
しかし、集団が大きくなってくると、互恵的利他主義は個人のレベルではだんだん通用しなくなってきて、自分から見て役に立たないと思われる人は非難の対象になってくる。これはどうやら、人間が抱くわりに普遍的な思考パターンらしく、自分が社会に多少は貢献していると思っている人の多くは、多少とも、こういった考えを心の奥に秘めていることが多いと思う。
もちろん、現代の健全な民主主義社会では、税制や社会福祉制度を通して、国家レベルでの互恵的利他主義が遂行されているのが普通だが、指導者やそれに煽動された国民が、社会の役に立たない人間は無駄だという悪しき機能主義に傾くと、いとも簡単に障害者を排除しようという話になり、行きつく先はナチスである。
役に立たない人間を抹殺するのは社会全体の幸福のためだ、という歪んだ利他主義が跋扈するようになる。拙著『現代優生学の脅威』で詳述したように、ナチスはT4作戦という悪名高い政策で、障害者、遺伝性疾患、同性愛者など国家にとって生産性がない人々を安楽死させた。その数は10万に及ぶと推定されている。
(メルマガ『池田清彦のやせ我慢日記』より一部抜粋。続きはご登録の上お楽しみください、初月無料です)
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