それから、もちろん、官僚が困るということ以上にもっと大きな意味で、学術研究、学術研究だけではないですね、国民の興味関心を充足する上でも、このような資料が残っていないのは非常に具合が悪い。学術研究ということで言えば、史料的価値。
この場合の「しりょう」の「し」は歴史の「史」の方ですけれど。その史料的価値が非常に高いものであるし、まああの、よく、こういう言い方するじゃないですか。何かこう、大きな政治的判断を下した後、批判されると、「批判は甘んじて受ける」と、しかし「結果に関し、良かったか悪かったかに関しては、後世の歴史家の判断に委ねたい」って。よく言うよね、そういうこと。だったら資料は全部残しておけよと。そういう話ですよ。
で、かなり重要なものでも一般に役所は5年たつと処分してしまう。あるいはそのような資料をまとめて置いておく場所が埼玉県かどこかにあって、以前、農水省を取材したときにあったのですが、そこに集められたりしている。年金の資料もそうでしたよね、確か、埼玉だったと思います。そういう扱いをこの行政文書、公文書についてやっておきながら、「後世の歴史家の判断に委ねたい」などということはとても言えないのだと思います。
実はこの問題というのは、私はもともと法制史学を志していた時代があって、研究者の卵だった…残念ながら卵は孵化しなかったんですけれどね(笑)、いくつか論文を書くときに、私が対象としていたのは明治初期の日本でしたので、近代の日本の始まりのところですね。日本の法律が出来ていく歴史を勉強していたわけです。
ほとんど今の人は知らないと思うのですが、旧刑法という法律があったんですよ。その当時は「旧」とは言わず、ただ「刑法」なんですが。明治15年に施行されて明治40年過ぎまで実際に効力を発揮していた法律でした。その後、現行刑法になっていくので、そちらは「刑法」で、その前の刑法を「旧刑法」と呼ぶんですね。
これの凄いところは、ボアソナードというフランスの法律学者を呼んできて、いわゆる「お雇い外国人」の1人で、法政大学とその後、縁の深い方になりましたので、法政大学の方はよくご存じでしょうが、そのボアソナードと日本人の法務官僚が議論をして旧刑法を作っていった会議がありました。その会議の記録というのが、これが普通のところにはなかったのですね。
明治は公文録という、公文書を集めたものがあるのですが、これは内閣制度が出来る明治18年までの色々な公文書を集めて編集したものなのですが、そこにもないのですね。どこかから見つかったのかというと、このときにボアソナードと議論をした日本側の法務官僚で鶴田さんという人がいて、この人が、議論の過程を書き起こしたものを家に持ち帰っていたのですね、で、最終的に家に保存されていた。これ、鶴田文書と言われていたのですが、そうやって出てきた資料を「日本刑法草案会議筆記」という名で早稲田大学が出版したりした。これで旧刑法の研究がダーッと進んだということがありました。そうやって官僚が、公式には残していなくても、結構自分のものとして残している場合がある(*南スーダンPKOの場合、そういうものもありました)。
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