横田 「新潟に引っ越す前、広島にいた頃にはいろいろなところに家族旅行をしていて、父・滋は写真が趣味でしたから、家族が楽しむ多くの場面を撮影してくれました。そのようにどこにでもある平和な家庭の一枚一枚の写真が、後に救出運動のシンボルとして使われるようになったのはとても皮肉だと感じますし、逆に言えば、父が撮った写真から家族の幸せが伝わってくるからこそ、問題を動かす原動力になったのかもしれません。
実は、めぐみが拉致されたことが濃厚になって、実名を出すか出さないかという話になった時、新潟県のYさんやMさんでは誰の関心も呼ばないから、リスクを覚悟してでも「横田めぐみ」という名前を出そうと決断したのは父なんですね。
当時、北朝鮮は拉致を否定していましたから、そんなことをしたらめぐみが殺されるかもしれないと父以外の家族三人は強く反対したんですけど、いや出すべきだと。
父が本当にめぐみを可愛いがっていたことを私はよく知っていましたし、その決断に男親として父の姿を見る思いがしました」
西岡 「『家族会』が結成される頃から、私も横田さんご家族のご苦労の一端を目の当たりにしてきましたが、誰の理解も得られない本当に長く辛い期間を過ごされてきましたね」
横田 「子供だった私も小学生から中学生にかけて、友達に指を差されて『横田めぐみ、いないいない』と揶揄され、嫌な思いをしたことが何度もあります。家庭の中でも昨日までの明るい食卓は灯が消えたようになって、子供ながらにめぐみの名前を出してはいけないと思うようになりました。
めぐみがいつ帰ってきてもいいように、両親は毎晩玄関灯をつけたままにしていて、そのことはいま思い出しても涙が出てきます。
しかし、そういう中にあっても両親は……」
(無料メルマガ『致知出版社の「人間力メルマガ」』2022年12月8日号より一部抜粋)
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