『爆弾犯の娘』がベストセラーに。映画『「桐島です」』脚本家・梶原阿貴さんが振り返る、父が逃亡・潜伏していた「昭和末期の池袋」の空気感

2026.05.20
by まぐまぐニュース スタッフ
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昭和46(1971)年12月24日に新宿伊勢丹前の交番が爆破された「新宿クリスマスツリー爆弾事件」をはじめ、数々の爆破事件などを実行した過激派「黒ヘルグループ」。そのメンバーとして、代々木署清水橋派出所のパイプ爆弾設置と宮城の米軍無線中継所を狙った事件に関わり、「爆弾犯」として指名手配されて14年間も逃亡を続けていた一人の男性がいました。

あの石橋蓮司や故・蟹江敬三とも舞台で共演経験があったという俳優・梶原譲二氏。

その彼を「父」に持ち、昭和末期の池袋周辺で逃走・潜伏する日々を、下板橋で手芸店を営む「母」とともに過ごした「娘」が、当時の様子とその後を克明に描いたドキュメンタリー本『爆弾犯の娘』(ブックマン社)が、いま話題です。

『爆弾犯の娘』梶原阿貴・著 ブックマン社・刊 定価:¥1,980(税込)

爆弾犯の娘』梶原阿貴・著 ブックマン社・刊 定価:¥1,980(税込)

この本の著者で映画『「桐島です」』(2025年、高橋伴明監督)の脚本家でもある梶原阿貴(かじわら・あき)さんに今回、同じく池袋出身のMAG2 NEWS編集部・田端が単独インタビューを敢行しました。

2025年7月の発売から10ヶ月で早くも「6刷」が決定したというベストセラー『爆弾犯の娘』は、どのようにして生まれたのか? 1980年代の東京・池袋を舞台にした逃亡生活と、当時の昭和の空気感が鮮烈に描かれた本書誕生までのウラ側はもちろん、「池袋出身」同士による「昭和末期の池袋周辺」の知られざる風景などについてもたっぷりと語り合いました。

池袋とサンシャインと汚い商店街

──本日はよろしくお願いいたします。本を読ませていただいて驚いたのですが、梶原さんは「北池袋」のご出身なんですね。実は私、出身が「東池袋」なんです。生まれ育った街が、文京区大塚六丁目と豊島区東池袋五丁目の区界でした。サンシャイン60や都電荒川線が走っているあたりの、かなり古くて雑多な商店街の精肉店の息子だったんです。梶原さんの2歳下だから世代的にも近くて、池袋西口付近のヤバい感じや大塚北口のいかがわしい感じ、まさにこの本に出てくる池袋周辺の「怪しい空気」を原体験として知っているので、お話を伺うのが楽しみでした。

梶原阿貴(以下、梶原):あ、そうなんですか。同世代で家が近い方といえば、「ポリタスTV」の津田大介さんも同い年で、出身が北区滝野川なので近いんですよ。

──そうなんですね、滝野川も都電でよく行きました。当時は煌びやかだったサンシャイン60のすぐふもとに、共盛会と日出通り商店会というとても古臭い商店街があったんですよ(笑)。

でも、サンシャインの地下なんて、子供の頃から「死体が埋まっている」なんて言われて、怖がられていましたね。

梶原:そうそう、東京裁判のときA級戦犯が絞首刑で処刑された拘置所でしたからね。あの「巣鴨プリズン」の跡にあんなものを建てたら呪われる、なんてよく言われていましたよね。

──中に入ってるサンシャイン劇場も「お化けが出る」「ゲネプロのとき、客席の後ろに日本兵が立っていた」という噂を子供の頃からよく聞いていました。ある時から、サンシャイン全体が巨大な墓標に見えてましたね。

image by: 本屋, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons  池袋駅(東武百貨店屋上)から見たサンシャイン60

image by: 本屋, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons 池袋駅(東武百貨店屋上)から見たサンシャイン60

梶原:うんうん、基礎工事のときに死体が埋まっていた、とかね(笑)。

──地元の人たちは、あんなものができたことに本当に驚いていたと思います。でも、サンシャインのすぐ裏にあったうちの商店街周辺は、戦前の長屋がそのまま焼け残っていたり、街全体が戦後間もなくの「闇市」のようなところで、サンシャインとの落差がすごかったんですよ。

image by: あばさー, Public domain, via Wikimedia Commons サンシャイン60の敷地内にある東池袋中央公園内には「巣鴨拘置所」だったことを示す慰霊碑が建てられている

image by: あばさー, Public domain, via Wikimedia Commons サンシャイン60の敷地内にある東池袋中央公園内には「巣鴨拘置所」だったことを示す慰霊碑が建てられている

梶原:実を言うと、うちの母は東池袋の日出小学校の出身で、その極東池袋エリアで育った人なんです。

──あ、そうなんですか。うちの肉屋は、日出小や池袋小、雑司ヶ谷小、大塚台小、高田中など、豊島区の小中学校の給食用の肉を卸していたんですよ。十数校ほど卸していたはずです。

梶原:えっ、本当ですか。私、文成小学校だったんですよ。

──もしかすると卸していたかもしれないですね。お店は2019年に父の高齢化を理由に閉めてしまったんですが。

梶原:そうしたら、私の身体の数パーセントも、そのお肉でできているかもしれない(笑)。

出版のきっかけは映画『「桐島です」』

──2025年7月の出版以来、今まで必ず聞かれていることだと思うのですが、なぜこのタイミングでお父様のことを本にして公表しようと思われたのか、改めて教えていただいてもいいですか。

梶原:これは本にも書きましたが、ブックマン社の小宮亜里編集長から「無理やり書かされた」というのが本当のところなんです。きっかけは、私が脚本を担当した映画『「桐島です」』(2025年、高橋伴明監督)の初号試写でした。小宮さんは『桐島』のプロデューサーでもあるのですが、小宮さんが試写を観て「映画の公開に合わせて、梶原さんの生い立ちに関する本を出すのはどう?」って言ってきたんです。

最初は「そんな時間なんてないし」と思いましたが、映画公開と同時発売ということを考えたら「逆にいいな」と思えてきまして。それ以外のタイミングだったら出さなかったかもしれませんね。

──それまでは、ご自身のお父様のことをお話しすることはなかったのですか。

梶原:話していませんでした。ただ、父が一時期芸能界にいた関係で、NHKの偉い方や、テレビ局・映画会社の年配の方の中に、時々父のことを知っている人がいたんですよ。「梶原ってさあ」と話を振られるたびに、あまりいい思いをしてきませんでした。だから、ずっと黙ってきたものを「今さら公表して何の得があるんだろう?」というのが正直な気持ちでした。

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ただ、『桐島』のモデルになった桐島聡さんの逃亡の約50年間って、詳しいことを何も話さないまま亡くなったので、想像で作り上げなきゃいけない部分が大きいじゃないですか。そこで「私たち家族も逃亡していたんだよ」と言えば、観客に対しての説得力や信憑性が多少は担保されるかもしれない、という気持ちがありました。だから、『桐島』とセットじゃなかったら本は出さなかったと思います。

──もともと、子供時代の「父との逃亡生活」を映画化したいという思いはあったのでしょうか。

梶原:ずっと前から、自分のことだということを隠した上で映画化しようとは思っていました。今回、高橋伴明監督から『桐島』の脚本オファーをいただいた時に、「お前、逃亡してたんだから(脚本は)5日で書けるだろ?5日で書け」と言われて。「自分の意思で逃亡していたわけじゃないし、当時は子供だったから」と答えたんですが、「世の中に逃亡生活したことがある脚本家はお前しかいないだろう」「お前にしか書けないよ」と。「確かにそうだな」と思って、お受けすることにしたんです。そこから「映画の公開と合わせて、自分の生い立ちについて書いた単行本を出す」という話が決まりました。執筆スケジュールは鬼のようにタイトでしたが、逆にそうじゃなかったら書けなかったかもしれませんね。

桐島事件との不思議な縁

──私も、桐島さんが亡くなる直前に病院で突然「桐島聡です」と告白したというニュースを見て、本当に衝撃を受けました。子供の頃、交番の横に貼られていた黒縁メガネの桐島聡さんの手配ポスターも、よく覚えています。

image by: ウィ貴公子, Public domain, via Wikimedia Commons

image by: ウィ貴公子, Public domain, via Wikimedia Commons かつて全国で貼られていた指名手配ポスターには「桐島聡」の顔写真が掲載されていた

梶原:私の父と桐島さんは昔、指名手配ポスターでちょうど隣同士に並んで掲載されていたんですよ。先日亡くなった長谷川和彦監督の『太陽を盗んだ男』(1979年)のワンシーンで、菅原文太がジュリー(沢田研二)を追って歌舞伎町の街を走るシーンに、あのポスターが大写しになる場面があるんです。あれは美術ではなくて、当時本当に交番に貼ってあったポスターを意図的に撮られているはずです。そこに、ちょうど父と桐島さんが並んで写っているんですよ。なんだか運命的なシンクロニシティを感じますね。

──逃亡中のお父様は、自宅に潜伏していたから、貼られているポスターは見たことがなかったハズですよね。

梶原:そうなんです。今考えると、うちの家族には「交番の前を通っちゃいけない」という謎の掟があったんですけど、あれは私にあのポスターを見せないためだったんですね。私は本当に真面目で、交番の近くを通らないように回り道していました。それに、子供だから貼られているのは殺人犯か強盗犯くらいの認識しかなくて。政治犯だとか爆弾犯なんてものは知らないですから、まさか自分の親の写真があるなんて思いもしなかったと思いますね。

昭和の池袋、その知られざる風景

──本を読んでいて思ったのは、当時の「池袋周辺の空気感」が閉じ込められているなと感じたことですね。かつてお母様が下板橋の商店街で経営されていた手芸店「赤い糸」も、今月からネットショップで復活されたそうですね。 

梶原:そうなんです。私の本が売れているから便乗しようと思って(笑)。手先も器用なので、ボケ防止にもなりますし、母に「ネットショップで復活させようよ」と言って、いま一生懸命やっています。

──当時の池袋って、表通りは華やかでも一歩裏に入ると本当に違いましたよね。バラックや長屋のような家がたくさんあったりして。

梶原:本当にそうでした。70年代後半から80年代の池袋の表向きは、デパート文化華やかりし時代で、西武、東武があって、丸井もできて、サンシャインができて、パルコもあって。父が警察に自首したとき、私が小学6年生で1985年だから、ちょうどバブル前夜です。

世間はイケイケドンドンで盛り上がっていく中で、うちはひっそりと隠れながら住んでいる。なのに、母の商売も微妙に軌道に乗って、サンシャインの中に入っている雑貨店に卸していたりして、バブルの恩恵もちょっと受けていて変な感じでした。今だと世の中全体が沈んでいるから、隠れて住んでいる家族との対比があまりないと思うんですけど、当時は外の華やかさと、家の中の暗さのコントラストが極端だったと思います。

──あの華やかなネオン街から一歩入ると、真っ暗な部屋の中で「(音を立てられないから)トイレも流せない」というお父様が隠れて住んでいる…、あの描写は強烈でした。

梶原:路地裏は昭和の古いままだったけれど、表向きには綺麗なビルがどんどん建っていく。あのコントラストは、池袋独特のものだったと思います。北口の「ウイロード(正式名称:雑司が谷隧道、池袋駅の北側で東西をつなぐ歩行者専用の地下通路)」のあたりに傷痍軍人の方がいて物乞いをしていて、「足がない」という設定なのに夕方になると普通に歩いて帰る、なんていう光景も目にしました。

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──終戦からまだそんなに経っていない時代の空気が、あの頃は本当に残っていましたよね。

梶原:私たちが生まれた頃って、戦後30年くらいなんですよ。今から30年前というと1995年で、そんなに昔じゃない。なのに、当時から戦争を遡って30年というのは、まだ本当に戦争が身近にあった時代でした。バラックや闇市の名残もあって。それを思うと、今は戦後80年経って、いろいろなことが麻痺しているなと感じますね。

子供だけで通った今は無き「池袋マンモスプール」

──80年代に池袋で子供時代を過ごした人なら、池袋大橋のところにあった「池袋マンモスプール」を覚えていると思うんですが、あのプールには行ってましたか?

梶原:懐かしい! 池袋マンモスプール。その話、これまでのインタビューでもしたことなかったかも。本当に巨大な、世界一広いんじゃないかというくらいのプールで、冬場はスケートリンクになるんですよね。私もよく行きました。子供だけで行って、うどんやラーメンを食べるのがすごく好きだったんです。

これは初出しのネタなんですけど、3、4年生の時、マンモスプールの巨大な滑り台で滑ったら水着のお尻が破けてしまって、プールから上がれなくなったことがありました(笑)。男の子たちもいる中で、「プールの中でうどんを食べたいから買ってきて」とお願いして、誤魔化すために水の中で半身浴のままうどんを食べたんです。あれは、この本が映画化したら使えるシーンかもしれないですね。プールを再現するのにCGを使わなきゃいけないけど(笑)。

──あれだけ広いプールなのに子供だけで通っていましたよね。今考えると、あの頃の小学生は幼い割にずいぶん行動範囲が広かった気がします。 

梶原:本当に当たり前のように、子供同士で行っていました。プールとスケートリンクが季節で入れ替わって通年遊べる場所で、プールサイドにうどん屋やラーメン屋、カレー屋などがプールを囲うように並んでいてね。両耳に100円玉を入れて、耳栓代わりなのと、うどんを買うお金として持っていってたんですよ。1回それを水の中に落としてしまって、友達みんなで潜って探したこともありました(笑)。

──池袋のすぐ駅前にあの大きさのプールがあったというのは、知らない人にとってはちょっと信じられない話ですよね。今は、巨大プールの跡地だけに巨大なゴミ処理場(清掃工場)になってしまいましたが。 

梶原:本当に巨大でしたよね。サンシャインができて、デパートができて、映画館もたくさんあって、ゲームセンターもあって、マンモスプールもあって。池袋って、子供にとってはここだけで全部が完結する街でしたよね。

街は変わり、闇は残る

──最近、その池袋もずいぶん変わってしまいましたね。本の中にたくさん出てくるような「かつての池袋」が失われてしまったような気がします。

梶原:そうなんです、今年の1月に下板橋へロケで行ったら、商店街自体がなくなっていてびっくりしました。もう商店街じゃなくて、ただの住宅街になっていました。八百屋があって、果物屋があって、銭湯があって、お茶屋があって、お煎餅屋があって──そうやって順番も全部覚えていたお店が何もなくなっていて。「商店街がなくなるって、こういうことか」と思いましたね。

──そういえば、『爆弾犯の娘』みたいに、池袋あたりを舞台にした作品って意外と少ないですし、住んでいた作家もそれほど多くない気がしますよね。でも、池袋周辺は「幻想文学」の作家が多く住んでいたそうなんです。昔は、街灯などの明かりが少なくて真っ暗なところが多くて、東京の中でも「闇」が多かったから幻想文学が書けたんだと、前に荒俣宏が言ってました。

梶原:最近、官能小説家の花房観音さんと中村敦彦さんの共著『ルポ池袋アンダーグラウンド』(2022年、大洋図書)という本の中で、「池袋には闇のフタがあって、それを開けると魔物が出てくる」「池袋は磁場が狂っている」というような話が書かれているのを読んで、すごく腑に落ちました。新宿や渋谷とは全く違う、独特の空気感があるんですよね。

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──いま、それを聞いて私もすごく腑に落ちました(笑)。やっぱり、池袋には魑魅魍魎が跳梁跋扈している雰囲気がありますよね。今回、主に池袋という街を舞台にしたこの本を書いたこと、そして大きな反響をいただいたことは、ご自身の創作活動にどんな影響を与えていますか。

梶原:女優として演技する、あるいは脚本を書くということについては、父が俳優だったので、その意味では子供の頃より唐十郎とか劇団第七病棟などのアングラ演劇を見ていたので、ダイレクトに影響を受けてきました。それとは別に、この“爆弾犯の娘”という経験そのものが私の「モノの見方」を作っているんだと思います。

私のことを知らない人は、自宅に爆弾犯の父親をかくまっていた過去があったなんて思いもよらないはずなんです。だから、どんな人に対しても「この人、実はウラで何かを抱えているのかもしれない」と思うようになりました。見えているものの裏側に、絶対に誰にもわからない何かをそれぞれの人が抱えているのかもしれないな、と。

──それは、脚本を書く時の人物描写にも反映されているのでしょうか。

梶原:そうですね。子供の頃って、公園の柵を刑務所に見立てて「ここから出してくれ〜」と遊んだりしますよね。でも、父が指名手配犯だったことを知ってからは、それが楽しくなくなりました。サーッと血の気が引くような思いがして。

そうやって、人は無意識に誰かを傷つけているのかもしれない。今はもう大人だから刑務所ごっこを目の前でする人はいませんけど、自分が何かを言ったり書いたりする時に、誰かを傷つけているのかもしれない、と考えるようになりました。だから、キャラクターを描く時にも、表に見えている顔の裏に何を隠しているのかを考えています。多面的に人間を描こう、物事を多面的に見ようということに、とても気をつけています。

売れた『爆弾犯の娘』と、これからのこと

──初めて過去を明かした本がベストセラーとなり、しかもインタビューへ伺った本日「6刷」が決定したそうですね。ここまでの反響は予想されていましたか。

梶原:まったく予想していませんでした。こんなタイトルで、こんな怖い黒い表紙で、しかも一度しか切れないカードを切ってカミングアウトしたわけですから、売れなかったら私の人生どうしてくれるんだ、と思っていました(笑)。いま出版業界がなかなか厳しい時代ですから、本当に「どう責任取るんですか!」という気持ちはありました。

ライターの吉田豪さんが「これまでの損を取り戻してほしい」とおっしゃってくださったのですが、本当にいろいろなものを取り戻しつつあるなと感じています。まだ全然足りないんですけど(笑)。気持ち的には「100万部」はいかないと損は取り戻せませんが、お金には代えがたい、いろいろなものを取り戻すことができていると思います。

──映像化のオファーも来ているそうですね。

梶原:いくつかお問い合わせはいただいています。映像的にも非常に面白い題材だと思います。実現したあかつきには、池袋マンモスプールの再現も含めて、当時の池袋の空気感をぜひ蘇らせてほしいですね。

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──本日は本当に貴重なお話をありがとうございました。しかし、池袋マンモスプールの話まで聞けるとは思いませんでした。

梶原:こちらこそ、ありがとうございました。地元の人にしか通じない話を、こんなに楽しくお話しできるとは思いませんでした(笑)。

【梶原阿貴さんの取材を終えて】

この『爆弾犯の娘』をすでにお読みになられた方ならおわかりになると思いますが、この本は梶原阿貴さんの目を通して描かれた「家族」と「街」の物語です。タイトルだけで誤解する人がいるならば、決して爆弾闘争を賛美する本でも、日本政府の体制批判をする本でもないことをお伝えしたいと思います。これは、爆弾犯として指名手配されて家の中で息を殺して暮らしていた父親、その父親の本名も知らないまま数多くの「謎ルール」に包まれた生活を強いられてきた小学生の娘、そんな娘を育てながら愛する夫を精神面でも生活面でも支え続けた母親、そんな3人家族による池袋近辺や小金井、そして伊豆での「暮らしの記録」「運命の記録」なのです。

この物語で最も面白かったのは、あれだけ嫌っていた父親の影響で演劇関連の縁によって女優になり、女優になった縁で脚本家になり、脚本家になった縁でこの本を著すことになった梶原阿貴さんの「運命」でした。人間、どれだけ辛い経験や、理不尽だと思えることにも「必ず意味がある」とよく言われていますが、この本が世の中に出て、本当に多くの人々に読まれ、そして多くの感動を呼ぶことになったのも、この辛く長い経験があったからに他なりません。そして、そのことを書くように勧めた人が存在していたからであり、そのキッカケとなったのが映画『「桐島です」』の脚本を書くことになったからであり、その脚本を書くことになったのも“爆弾犯の娘”だったからであり、「すべては繋がっていたんだな」と思わずにはいられませんでした。

だから、今回のインタビュー取材のお話を関係者の方からご紹介いただいた後、私は「自分が生まれ育った<池袋>周辺を舞台にしたドキュメンタリーの本」だということを知って、その運命のイタズラに、「驚き」を通り越して妙に「納得」してしまいました。ああ、私はこの本と出会うために、あの古くて汚い商店街と妙に不気味なサンシャインが屹立する混沌の街・東池袋の肉屋の息子として生まれ育ったのだなと。梶原さんとのご縁に深く感謝を申し上げます。

さて、今回のインタビュー原稿を読んで、この本に興味を持たれた方がいらっしゃいましたら「やさしさを組織せよ」という言葉を、この本の中から探してみてください。なぜなら、その言葉こそが不穏な空気が取り巻いている現在の日本と世界を生き抜くための「大きなヒント」になると本気で思うからです。(取材:MAG2 NEWS・田端宏章)

取材協力(敬称略)
小宮亜里(ブックマン社)
濱田髙志

 

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