なぜ、あの長谷川平蔵は「鬼平」と呼ばれるようになったのか?

Kyoto,Japan - 12 May 2017 :The Toei movie village in Kyoto ,Uzumasa. The view of downtown in Edo period.Kyoto,Japan - 12 May 2017 :The Toei movie village in Kyoto ,Uzumasa. The view of downtown in Edo period.
 

池波正太郎の小説を原作としてテレビドラマ、映画、お芝居などで人気を保ち続けている「鬼平犯科帳」。主役の鬼平こと長谷川平蔵、本当はどのような人物だったのでしょうか。メルマガ『歴史時代作家 早見俊の無料メルマガ』では、時代小説の名手として知られる作家の早見さんが詳しく紹介しています。

鬼平こと長谷川平蔵と鬼たち

鬼平こと長谷川平蔵は池波正太郎の、「鬼平犯科帳」で有名になりました。「鬼平犯科帳」を原作としたテレビドラマ、映画、芝居も制作され続けています。

実際の平蔵は火付盗賊改の頭を約8年務め、数多の火付け犯、盗賊を捕縛しました。火盗改の頭は旗本の先手組の頭から加役として選任されます。加役とは本職以外に臨時に務める役目です。歴代の火盗改頭は在職期間数カ月から1、2年が普通でしたので、平蔵が8年に亘って頭を担ったのは異例でした。

火盗改と言えば長谷川平蔵、長谷川平蔵といえば火盗改、まさしく、「ミスター火盗改」ですね。鬼平と呼ばれ、盗賊たちから恐れられたのも、うなずけます。

ちなみに、長谷川平蔵以外にも鬼を冠された火盗改の頭がいました。

中山勘解由直守という人物で、平蔵より100年程前に火盗改の頭を務めています。中山は大変に強引なやり方をしました。配下の同心や岡っ引に不審な者を片っ端から捕縛させ、口を割らないと情け容赦のない拷問を加えました。拷問に耐えきれず自白した者の中には無実の者も珍しくはなく、従って多くの冤罪を生んでいます。それゆえ、中山は、「鬼勘解由(おにかげゆ)」とか、「鬼勘(おにかん)」と呼ばれたのです。

そんな中山は火盗改の頭に任じられた際、自邸の仏壇を壊し、鬼になる覚悟を決めたのでした。

対して長谷川平蔵は公平な吟味を心がけました。召し捕った罪人の話ばかりか被害者、証人の証言を入念に聞き取り、矛盾がないか確認した上で、吟味を老中に上申したそうです。平蔵が吟味に公平を喫したのは、父親平蔵宣雄(のぶお)の影響でした。宣雄も火盗改の頭を務めました。

在職中に目黒行人坂の火事がありました。江戸時代三大火事の一つに数えられる大火です。火事の原因は、願人坊主、真秀の付け火でした。捕縛した真秀を吟味する際、宣雄は一方的な取り調べではなく、出火現場周辺の調査を行い、真秀の証言と矛盾がないかを確かめたのです。この公正さを平蔵は受け継いだのでした。

宣雄は火盗改退任後、京都西町奉行に栄転しましたが、在職半年後に病死しました。平蔵も父について京都に赴きます。父の死で江戸に戻る際、見送る奉行所の与力、同心に、英雄豪傑として名を馳せるから江戸に来たら訪ねてくれ、と言い残したそうです。

江戸は徳川幕府開闢から大政奉還までの期間に小火を含めると約1,800件もの火事が記録されています。大火は49回、同時期の大坂が6回、京都が9回ですから、「火事と喧嘩は江戸の花」の言葉が実感されます。江戸っ子の中には火事見物が趣味という不届き者もいたそうです。

火付け犯も多くいたことでしょう。火事場泥棒も出没したに違いありません。火盗改の重要性がわかります。

image by:RYUSHI / Shutterstock.com

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