現在でも、明智光秀は主君殺しの不忠義者として悪人扱いされているほどです。まあ、こうした光秀の悪人像は、秀吉が自身を英雄に祭り上げるために、流布し、フレームアップしたわけですが、それはともかく。
お福の父、斎藤利三もまた山崎合戦の後、豊臣方に捕えられ、逆賊として処刑されました。こうした逆風?にもかかわらず、家康が、悪評高い光秀の重臣であった斎藤利三の娘を、わざわざ大切な跡継ぎの乳母に決めたということが、明らかに不可解なのです。
しかし、家康と光秀が裏でつながっていて、その後も家康が僧に変身した光秀を相談役にしていたと考えれば、お福の「大抜擢」も不思議ではなくなるのです。
天海僧正は家康にとって、宗教関連のアドバイザーや江戸建設の霊的コンサルタントだっただけでなく、朝廷との交渉役でもありました。そして、光秀が信長を誅殺した動機が、信長から朝廷を守ることにあったとする説もあるくらい、光秀は勤皇の徒であり、朝廷の深い信頼関係を築いていました。実際、織田信長も朝廷との窓口として光秀を使っていたのです。
その出自も謎に包まれたまま、突然歴史の表舞台に登場した無名の初老の僧侶が、なぜ家康の名代として朝廷との交渉役になれたのか?これもまた歴史の謎のひとつですが、「天海=光秀」説を前提にすれば、不思議でも何でもありません。また、天海の後を継いで、光秀の側近の娘お福(春日局)が幕府と朝廷の交渉役となったことも、ごく自然な成り行きであると納得できるのです。ちなみに、この「春日局」という名前も、お福が朝廷から賜ったものです。
もちろん、信ずるか信じないかは、貴方様次第です。
(メルマガ『富田隆のお気楽心理学』より一部抜粋)
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